新井城


形式 丘城 【位置】
油壺マリンパークの駐車場南側にある、東大油壺地殻変動観測所の敷地内が城址。
年代 戦国時代
城主 三浦義同(道寸)
遺構 郭・土塁・堀・虎口・土橋
訪城日 2010.10.13
参考資料 東国の中世城郭・日本城郭大系・相模岡崎城跡総合調査報告書



【歴史】
新井城の築城時期は分かっていないが、鎌倉時代から三浦半島を支配していた三浦氏よって築城されたと思われる。室町時代、三浦氏の当主時高に男子がなく、扇ヶ谷上杉氏の子を養子とし、三浦義同と名乗るがしかし、後に高時に実子高教が生まれると次第に義同と仲が悪くなり、身の危険を感じた義同は小田原の総世寺に身を寄せていたが、心を同じくする三浦一門の者達と、明応3年(1494)時高親子の居る新井城に夜襲を掛けてこれを落とし、時高親子を滅亡させている。この後に三浦氏当主になった義同は、子の義意に三浦半島の統治を任せ、自らは平塚市の岡崎城で中郡の統治に当たった。明応4年9月(1495)に、小田原城主大森藤頼が北条早雲に城を夜襲され、縁のある義同を頼りに岡崎城へ落ち延びて来る。小田原城に入った早雲は、次第に周辺の大森氏領や義同の領地に侵攻して行き、永正9年(1512)8月13日に岡崎城へも迫り城は落とされてしまう。城を落ちた義同は小坪の住吉城へ入るが、ここも落とされ更に新井城へ入り、子の義意や大森氏・佐保田河内守・同彦四郎・三須三河守ら一族郎党と共に立て籠もった。半島に孤立した新井城ではあったが、上杉氏等からの救援や城内での自給自足もあったのであろう、堅城な城を前に早雲も長期戦を覚悟せざるを得ず、城兵の奮戦も相まって3年も持ちこたえたが、永正13年(1516)7月11日朝8時に、道寸以下三浦勢は城から打って出て、北条勢を追い立てまくったが城は落城し、三浦一族はここに滅亡する。




【遺構】
現在遺構は良く残っていて、引き橋があったと言われる半島が括れた内の引き橋と言われる所には大堀切が南側にハッキリと残り、北側は現在舗装路の坂になって往時を偲ばせる。この堀切の南に面する城内側には土塁を伴った郭が畑となって残り、更に南の道沿いには堀の様な窪地が見られ、道は堀だった可能性もあります。二の郭は東大油壺地殻変動観測所の施設内にあり、全周を土塁で囲われ図の12、15が虎口で、14の先端も土塁の開口部があるので細尾根が海岸まで下っていれば虎口ですが、尾根先は藪の為未確認です。13は後の開口部と思われます。16は空堀で17に土橋が掛り、主郭への虎口へ通じている。虎口を入ると8は主郭面より1.5m低い方形をしていて、西側にも土塁が残っていました。主郭も全周土塁で囲われ、4の張出しは櫓台で、両側の堀と虎口7に対して横矢が掛る仕組みです。10と11の土塁隅も広くなっているので櫓台が想定されます。2の区画は土塁6によって仕切られていた可能性があり、主郭内が二区画になっていたのかも知れません。内の引き橋から西側、ホテルやマリンパークの敷地内は、生活区画になっていたと思われます。


【左上】画像1.二の郭内の半島状部分14.小さくなった土塁が両側に残る。
【右上】画像2.二の郭から主郭方向を撮ったもの。二の郭の土塁と主郭の土塁が見え、主曲輪の土塁の方が高い事が
分かります。
【左上】画像3.二の郭の土塁を撮ったもの。
【右上】画像4.土橋と二の郭、主郭間の空堀を撮ったもの。
【左上】画像5.主郭側から土橋と、二の郭の虎口を撮ったもの。
【右上】画像6.主郭前面の空堀。
【左上】画像7.虎口正面。櫓台4の東方にも土塁に開口部があるが、櫓台からの横矢が遠く、こちらの方が有効的な
事から虎口と思われます。
【右上】画像8.櫓台の側面を撮ったもの。形は良く残っています。
【左上】画像9.虎口前から東側の空堀を撮ったもの。
【右上】画像10.主郭の東側土塁で高い部分。少しカーブしている。
【左上】画像11.2の区画を仕切っていたと思われる土塁。
【右上】画像12.同じく2の区画内部を撮ったもの。奥には東側土塁が見える。


【道】
油壺マリンパークを目指し、内の引き橋を過ぎて直ぐ左の東大附臨海実験所の門柱がある入口を入って、少し行った所に駐車出来ます。この入口は、先にある荒井浜の民宿への道や、散策路としても使われているものです。城址は観測所内にあり、関係者以外立ち入り禁止ですので主郭の東側と空堀が見れ、中央の櫓台や空堀も目の前の駐車場からフェンス越しに見られます。