屏風山塁


形式 陣場・囲郭 【位置】
芦ノ湖湖畔の箱根関所の背後にそびえる屏風山の山頂にあり、湯坂道の間道が通る重要な位置にある。
年代 天正十八年頃か
城主 後北条氏
遺構 郭・土塁・空堀・虎口
所在地 箱根町箱根
訪城日 2010.3.3
参考資料 中世城郭研究第19号


【歴史】
屏風山塁は、1977年に発見された城址である。天正十八年の小田原の役での屏風山塁に関する古文書として、天正十八年三月十九日付の山中城主松田康長から箱根権現別当に宛てた書状で、前日に別当から山中城へ陣中見舞いを差し入れてもらった礼状である。その文中に、「昨日は御屋形様(氏直)が屏風山に視察に来られたそうだが、当然の事である。当城(山中城)には来られなかった。屏風山も二子山も何山も、小田原の防ぎにはならず、箱根は当城(山中城)、片浦口は韮山城、川村口は足柄城の三ヶ所が重要である」と屏風山塁の名が書かれている。なぜ氏直は十八日に、この小さな単郭の陣場へ視察に来たのか?康長が「当然の事である」と答えている事から、氏直が屏風山塁へ出陣し、ここを中心とした箱根山での迎撃作戦計画があったのではないか?視察に際し塁が構築されたと思われるが、二十九日に山中城があっ気なく落城して康長は討死してしまい、その後籠城戦へと変更されたのではないか?



【遺構】
山頂には四方を土塁と空堀で囲われた43m×60mの単郭が残る。北側の西寄りと東側の中央付近に虎口が見られ、東側は枡形虎口の可能性を秘めている。郭内部は竹藪が密生している為に見通しが利かず、辛うじて案内板の横から郭内の無線中継所までの踏み跡が続き、西側の一部の土塁と空堀跡が良く見える。

【左】甘酒茶屋から登ると写真の案内板が立つ城址へ着く。案内板の前が空堀跡で背後
   に土塁の北東角が見える。空堀はハイキング道になり埋没しているが、先へ歩くと
   道が左へずれるので右の藪中に現れる。
【右】東側の土塁。
【左】南側の空堀跡。
【右】南側の土塁。
【左】西側の空堀跡と土塁、奥には無線施設のアンテナが見える。アンテナの送受信を
   良くする為に、この部分だけ藪が刈られている。
【右】左写真の右奥に延びる空堀跡。     


【道】
旧東海道(県道732号線)の甘酒茶屋の駐車場の止めさせて
いただき、そこから少し芦ノ湖方面へ県道を歩くと左側に屏風山
への案内板があるので、それに従い40分程で着く。