弾正河原(氏直の構え)



形式 尾根城 【位置】
白銀山から南東に派生する尾根上にあり、真鶴・湯河原方面から小田原へ通じる古道(頼朝道)が通っている。
年代 天正17年(1589)〜天正18年(1590)頃。
城主 後北条氏
遺構 郭・土塁・虎口・切岸・堀切
訪城日 2009.4.4、4.12
参考資料 小田原市史別編城郭



【歴史】
弾正河原に付いて詳細は分かっていないが、天正18年(1590)の小田原の役に際し後北条氏は、別の尾根にある根府川城と共に、真鶴・湯河原方面の海沿いから小田原へ続く尾根上の古道を侵攻して来る豊臣勢を阻止する目的で築城されたと思われる。江戸時代に描かれた「根府川村絵図」(小田原市史別編城郭)には「氏直の構」として城址の印がされ、根府川関所の役人や、小田原藩主が度々検分に訪れている。



【遺構】
白銀林道から登って行くと、地滑り跡の浅い谷戸に着く。正面の段差上に赤いポールが立っているのでこれを探す。この段差が左右に延びる土塁状の地形である。土塁1の遺構の地区が、小田原市史の根府川城関連地域図で示す西土塁と思われ、根府川城遺構断面図でも鍵状に屈折しているのでこれに当てはまる。しかし良く見ると二重に土塁が見られ、虎口遺構のようである。土塁に沿ってカーブを持つ空堀状の溝があるが、これは地割れ跡のようだ。虎口状の開口部(4m)がある土塁の長さは15mある。最初の赤いポールから箱根竹が密生しているが右へ進むと、最高所の長方形に近い形と思われる削平地に出る。二重土塁の地形が見られるが、これも地割れの跡か分からない。西側の尾根から入ると、藪中に枡形地形4が見られた。
一方、東へ進むと尾根上に二本の溝が続き、突然2.5m程の段差の切岸6に突き当たる。下りると郭状の平場8があり、斜め左奥から土塁9が発生し、先には箱根竹が密生していて行く手を阻んでいるが、土塁外側を数メートルは進め観察できる。土塁の断面は外側の傾斜がきつく、内側がなだらかになっている。切岸の左端から下る尾根に、中央を土橋状に残した堀切7が見られる。ここから10の切岸までは、箱根竹の密生により全く中が見えなくなっている。8の郭から切岸沿いに頼朝道へ出て、5の切岸を下りると開けた場所へ出る。ここに「弾正屋敷跡」11の表示板が立っている。左側には東土塁が残っており、途中に郭間を仕切っていた土塁が出ていて、12が虎口であろう。13は後の切通し道と思われ、外側からの虎口が何処なのかは藪が酷く分からないが、「根府川村絵図」には土肥鍛冶屋村山道や根府川関所から上って来る岩沢道が東土塁外側を沿うように通り、合流して10の切岸の東土塁側から城内を通過していたように描かれている。
※現地は関東大震災の時に、近くの大洞(おおぼら)で山津波が起きているなど、周辺では地割れや地滑りが発生したようである。上記の小砦か番所とした部分はそれに加え、箱根竹が密生する部分も多く表面観察が難しくなっている。



9の土塁を外側から見たもの


【左】小田原城カントリー倶楽部へ向かう白銀林道からの登り口。カントリー倶楽部
   手前700m程の林道ゲートが近くにある沢が流れる谷のカーブ。車は右の沢
   横に置き、登り道は左の奥へ行くと木の階段が数段あり、細い獣道状の
   九十九折の山道を登って行くが、イバラがある(大体は切った)ので手袋は
   必要である。頼りない道なので不安になるが、途中の狭い斜面には江戸期の
   ものと思われる炭焼釜【右】の石積があり、古くから使われていた道と分かる。
   地滑り跡に出る手前では、5mほど笹を漕げば着く。登り口から30分程掛かる。
【左】山道から地滑り跡に着いた所。
【右】2のカーブする溝2(左)と土塁1(中央)。右が小田原市史で西土塁とするもので、
   虎口遺構がある。
【左】カーブする溝2(左)と土塁1が直角に折れる部分。
【右】1の土塁。長さ5m程。手前が虎口で4mを測る。
【左】5の西側尾根上の削平地。右下へ下る尾根にも三日月状の平場がある。
【右】6の高さ2.5m程の切岸。
【左】8の郭面。左側に切岸がある
【右】7の堀切地形。手前が削り残し。
【左】9の土塁。右が城内側。
【右】11の弾正屋敷跡の表示板。郭内は幸い最近藪が多少刈られたようで広さが
   分かる。
【右】郭間を区切る土塁(右)と虎口12を見たもの。郭が括れている部分。
【右】13の切通し道から郭内へ入り、12の虎口方向を見たもの。左にも郭が続く。
【左】東土塁の外側から切通し道13(左)と奥へ続く土塁。
【右】13の切通し道を外側から見たもの。この辺りは土塁幅が広く、山からの
   尾根を削り込んで郭と土塁を造ったと思われる。