富士山陣場



形式 山城
年代 戦国時代
城主 後北条氏・細川忠興
遺構 郭・土塁・空堀縦堀
所在地 小田原市板橋
訪城日 2007.7.25


【位置】
小田原城のお鐘の台の南に位置し、独立丘陵の山上にある。(上の写真)お鐘の台から、富士山陣場・石垣山一夜城(奥)と一直線上に並んでいるのが分かります。


【歴史】
富士山陣場は、豊臣軍が北条氏側の板橋城を落とし、小田原城の付城として、改修されたものです。城址は、早川・箱根方面の展望が良い事から、北条氏以前の大森氏時代より、小田原城の支砦があったと思われます。後北条氏時代の、天正十一年(1583)頃に、人足三千人による普請計画が、『某清成書状』に見えます。天正十八年(1590)の小田原の役では、守る北条勢に対し、秀吉からこの城を落すよう命じられた、細川忠興勢(2700人)が攻めています。細川勢は堀際に仕寄を造りながら攻め、城兵も細川勢の陣に斬り込み奮闘したが、城兵達は力尽き数日間で落城しました。



【遺構】
城址は、西から東へ四郭が並ぶ連郭式の山城で、遺構は北条勢が使用していた時のものと、細川勢が改修した時のものが混在しています。遺構は、西の四郭は舌状で、東隅に三郭が乗る様な形です。四郭の先端下は堀切跡らしく、外側土塁の一部と南斜面には、道下に堀が続いています。三郭・二郭・主郭間は、土塁で仕切られ、二郭と主郭間の北側には石積が見られる虎口が残っています。主郭北側は二重土塁と空堀で厳重に守られています。城下には住宅が迫っていますが、遺構は良く残っていると思います。私観ではありますが、細川勢が改修した部分は、小田原城お鐘の台方面の、北に長く残る土塁や空堀、腰郭、帯郭が相当し、郭の配置は、西に構えられているのを見ると、北条勢の遺構と思えます。皆さんは如何思われるでしょう?


【左上】四郭の南斜面に残る堀跡。緩やかに下っています。
【右上】四郭から右手に三郭と、左奥に二郭の土塁を見たもの。夏なので草で分かりづら
     い。
【左上】左に二郭の土塁と、下に南側帯郭を見たもの。
【右上】南側帯郭の主郭方面を見たもの。直線的に続いているのが分かります。
【左上】主郭の東にある浅間社。後ろに見えるのは、主郭北側の土塁。
【右上】主郭北側土塁の、更に外側の空堀と土塁。
【左】右上写真の外側土塁が、東斜面へ下
    っています。


【道】
国道1号線を小田原から箱根湯本へ向い、箱根板橋駅前の「板橋駅前」信号とビーバートザンを過ぎて、次の信号を右折し、箱根登山線のガードを潜り直ぐ左折して登り坂を直進して行くと左ヘアピンカーブを曲がり、次のY字路を右に鋭角に右折して左へカーブし、住宅地を真っ直ぐ行き、突当り手前の右へ上る踏み跡が城址に建つ浅間社への道なので、突き当たる手前の右側の空き地側に車を寄せて止める。