浜居場城


形式 山城 【位置】
矢倉岳から発生する尾根上にあり、阿弥陀尾砦へ繋がる古道が通っていた。
年代 室町〜戦国時代
城主 大森氏・後北条氏
遺構 郭・土塁・空堀・櫓台
所在地 南足柄市矢倉沢
訪城日 2007.5.9


【歴史】
浜居場城は大森氏頼の城と伝えられているが、大森氏が河村城を攻め始めた頃の築城と思われる。その後に小田原に本拠を置き、足柄方面からの古道の監視と警備の役割を持った城として整備されたと思われる。その後、北条氏によって大森氏が滅ぶと城は引き継がれ、国境を守る支城となった。城は城番制が採られ松田氏が任に就いているが、平時は代官の須藤源次郎・村野安芸守・小沢孫七郎の三人が管理していた。天正九年(1581)出された「はまいは掟」によって管理体制の一端が窺える。天正十八年(1590)の小田原の役当時は、足柄城と共に早々と小田原へ引き上げたと思われ、以後廃城となった。



【遺構】
城址は富士山の噴火により、火山灰で大分埋もれている。主郭は広く西から北にかけて土塁が認められ、南面を除き外周を空堀が周っている。主郭から西へ一段下がり西郭と櫓台が残り、北にも堀に囲われた櫓台が見られる。主郭西面の空堀外側には土塁が確認できる。西郭の西には平らな自然地形が続き、その先の斜面には小削平地があり、現在林道が半分程削っていて先端部のみが残る。その下に虎口遺構が残っている様だが、今回は確認しなかった。城の役割としては、平時は古道の監視に重点が置かれていたと思われるが、主郭や西郭前面の平らな自然地形は兵の駐屯地に適しており、天正九年に武田氏が河村新城などを攻めた時には、大勢の兵が入ったのではないか。


【左上】城址案内板
【右上】東側から城址へ入る所を空堀の位置から見たもの。一段上がるのが分かる。
【左上】主郭内部。広々としている
【右上】西側土塁.。痕跡程度になっている。
【左上】西側の土塁と空堀。空堀は完全に埋没しており、テラス状に見える。
【右上】主郭から西郭を見たもの。手前が空堀部分。


【道】
21世紀の森の、駐車場に車を止め、セントラル広場を目指して林道を進み、広場に着いたら休憩しましょう。一息ついたら左へコンクリートの道を登って行きます。途中に無線施設があり、道が急になります。そのまま登って行けば山頂に着き、城址へ入ります。