石垣を使っていない、遺構と
思われる部分を紹介します。
形式 | 山城 | 【位置】 小田原城から早川を挟んだ対岸の、海蔵寺背後から箱根方面に延びる尾根上にあり、関白道が通る。 |
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年代 | 天正十八年(1590) | |||
城主 | 豊臣秀吉 | |||
遺構 | 天守台・曲輪・井戸・櫓台・堀切・土塁・石垣 | |||
訪城日 | 2009.1.14再訪 |
【遺構】 一夜城の井戸曲輪は石垣がとても綺麗に残り、城址の中でも見所の一つであるので、ここを見ただけでも満足され、戻られる方は多いであろう。井戸曲輪の南東側の石垣上から下を見ても、竹林が広がっているだけで遺構は無い様に見える。しかし、崩れた石垣部分を下りて行くと先に尾根が続いており、高さ50cmの土塁が横切り、先には二段の曲輪と思われる削平地が残っていた。この北側には虎口通路と思われる部分が見られる。この遺構は井戸曲輪の腰曲輪と思われ、尾根を削平して造られており、縄張り図にも載っていない様なので、未調査部分ではないかと思われる。土の城がお好きな方は、城址を訪れた際には、是非足を伸ばして頂きたい場所である。 【道】井戸曲輪へ下りる道の途中、右の二の丸側の石垣上を通り南側の石垣上へと進み、石垣が崩れている部分から下りると尾根がある。 |
【左】井戸曲輪の北西側(北虎口へ通じる道)から、南東の石垣を見る。写真右手に 石垣上から裏側へ下りる。 【右】石垣上から見た尾根。竹林にしか見えないが、真下と奥には遺構がある。 |
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【左】土塁を尾根側の曲輪から見たもの。奥には井戸曲輪の石垣が見える。 【右】土塁側から曲輪内を見たもの。左側には先端の曲輪からの通路がある。 |
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【左】先端の曲輪から上段の曲輪の切岸を見たもの。 【右】上段の曲輪から先端の曲輪内を見たもの。 |
この石垣文字は私が20数年前に、城址へ訪れた時に偶然発見 したものです。当時は何と書いてあるのか分からず、ずっと仕舞 ってありましたが、「かながわ考古学財団」のページに載っている のを見付けましたので、写真を紹介します。石は崩れて逆さまの 状態で、南曲輪下段から本丸南門跡への登城路の何処かにあっ たと思います。石垣の普請を加藤肥後守清正が担当した範囲を、 分かるように刻印した石と思われます。 「此石かき左右 加藤肥後守 石場」と書かれています。 |
久しぶりにネガを焼いて、デジカメで撮ってみました。石の正しい状態。 |
2009.1.14に再訪して変わらず残っていました。 |
駐車場から本丸へ向かう道の、南郭へ入る所にあります(黄色印)。 写真は南郭の石碑(手前)から撮ったものです。 以前に比べ埋没していますが、文字が読める様に掘ってあります。 |
ピンクで印した場所にあります。現地案内板より。 |