鴨沢城



形式 山城 【位置】
鴨沢台地の下を通る雑色トンネルの上にあり、南には中村川が流れる。
年代 戦国時代
城主 武 和泉守
遺構 郭・土塁・堀切
訪城日 最終08.7.2
参考資料 日本城郭大系・神奈川の城下巻・戦国の堅城U



城山東の鴨沢城合戦古戦場跡に残る塚と背後は城山


【歴史】
鴨沢城の合戦に付いての古文書が3通残っており、永正五年(1508)年から同八年(1511)の間の物であると思われる。文書によれば三浦道寸の家来、武和泉守が鴨沢城を守って居た所、北条早雲の攻撃を受けその時扇谷上杉朝良軍が鴨沢城へ駈け付け、武氏が迎えに出た際、待ち構えていた早雲勢に打ち取られた事が書かれているが、解釈が難しく逆に北条勢が城に籠もったと言う説もある。鴨沢城合戦後の北条氏の使用に付いては不明であるが、現在残っている遺構の郭面がハッキリしない陣場的な物なので、合戦後には廃城になったと思われる。



【遺構】
西方の和田山方向から城山へ向うと、尾根が広がった所の先に堀切があり、その手前に50cmの高さの土塁が見られ、左へ折れる角部では少し幅がある。土塁に沿って左(北)へ下るとかなり崩れたのか、傾斜する微高低差の郭面が二段見られ、その下の下段へは3mの段差がある。下段の北東角から細尾根が下っている。この段郭群は「戦国の堅城U等の縄張り図にも描かれておらず以前から城外部分と思い、上段の土塁しか確認していなかったので新しい発見であった。また、西側側面にも腰郭が存在する。この城外の郭群や土塁は城の北側からと堀切へ侵入して来た敵兵に対する構えと思われ、搦め手側も厳重に守られていた事が分かる。堀切と土塁は鴨沢城でハッキリとした遺構と言え、堀切から城山を見上げると上は櫓台である。櫓台の南斜面には二段程の腰郭が残り、堀切の南側を固めている。本城域は自然地形の様な面が主で、東端では土塁状の盛り上りが櫓台の可能性があり、その東下は一段下がって堀切跡(埋没)と二段の郭が見られ下段は広い。また、堀切跡の南斜面は掘り下りが残り、小郭が見られるので堀切への侵入に備えている。本城の中央から北へ下る尾根には堀切と思われる溝が尾根に直角に入り、尾根側には堀切側と西側に土塁がL字に残っている。城の南側は未調査であるが、以前に南側からの農道から登った所、長い腰郭を数段確認している。本城の北側2ヶ所に縦堀も存在する。


【左上】西側堀切に沿った土塁を西から見たもの。
【右上】西側堀切。右が本城側の城壁。堀幅は10m、深さは西側から2m程である。
【左上】堀底から見た本城側の城壁。上には櫓台が残る。
【右上】西側堀切の西段郭の上から二段目の郭面。
【左上】同じく下段の郭面を西から見たもの。平に削平されており、奥の左角から細尾根
     が下っている。
【右上】下段郭から上の郭の切岸を見たもの。
【左上】本城内部を東側から見たもの。自然地形に見える。
【右上】本城の中心付近から北へ下る尾根に残る堀切と土塁(手前)
【左上】堀切の土塁より尾根側を見たもの。写真左から中央へL字に折れた土塁が
     見える。
【右上】鳥瞰図の左端(東)の広い郭を東側から見たもの。
【左】城山の東側台地(古戦場)には、
   「武士之霊供養塔」が建てられている。
   


【道】
城山下を抜ける雑色トンネルを中村川側から入り、出口から100m程行くと最初の斜め左へ上る道を500m程進むと左側にハイキングコースの「鴨沢城へ」の標識があるので、右側のゴミ置き場の少し広がったスペースに寄せれば1台置けます。案内板に従い農道を道成りに10分行くと、みかん畑の中を通り、尾根がくびれた所で農道は右下へ下って行きますが、尾根上を斜め左へ行く山道が見えますので、これを進むと直ぐに土塁と堀切に着きます。