河村新城



形式 山城
年代 戦国時代
城主 後北条氏 城番制
遺構 郭・空堀
所在地 山北町諸渕
訪城日 2007.11.28
参考資料 水野茂氏の縄張り図、山北町史


【位置】
西丹沢から流れる河内川と、鮎沢川との合流地点にあり、この西側に城山がある。甲州から、河内川を下って来る古道に対して防御すると共に、城地の北方から西方には、不老山を経て山中湖村平野へ達する間道が通っており、西尾根には遠見番所を置いて監視していた。



【歴史】
河村新城は、駿河と甲斐との国境に造られた重要な境目の城で、度々争奪戦の舞台となっている。『甲陽軍鑑』などによると、永禄十二年(1569)に、武田信玄によって深沢城や足柄城・湯之沢城など、他の境目の九城と共に落城したとされている。その後、天正九年(1581)にも、武田勝頼によって攻められた事が知られる。時は下り、天正十八年(1590)の小田原の役では、江戸城代の遠山左衛門尉景政が守っていたが、徳川家康の甲州勢に攻められ、城兵31人が討ち取られて北条氏滅亡と共に廃城となった。



大空堀跡



【遺構】
城址一帯は、茶畑等に改変されたり、獣避けのフェンスが張られている所もあって、遺構の確認が難しくなっているが、山頂部分や他の一部がフェンスの外側の林に残っている。山頂の説明板が立つ所が主郭で、石積(当時の物か不明)が一部に残っており、西には二段の郭が続くが、この二郭間に案内板に記載の発掘された幅11.5m、深さ3.5mの畝堀が残っているようであるが、藪が酷く未確認である。二段目には斜めに横切る山道跡が発掘され、古道と思われる。更にその西には、畑となった長い削平地があり、先端には土塁状の断片がある。先へ進むと西から北へ扇状に開く林の中に、幅20m程の大空堀が西から北へと緩やかに傾斜して埋没しているが残っており、外側に土塁を有する。外側の土塁の下にも、幅4m程の空堀状の溝があるが、山中湖村へ伸びる間道と思われ、採石場の縁の先にある小山のピークが遠見の番所のようである。

【注】大空堀へは、説明板の先へ農道を進むと、フェンスに囲われた畑へ突き当たるので、右の林側フェンスへ階段を下りると、フェンスに扉がある。針金で留まっているので、開けて入る。帰りに閉め忘れないようにお願いします。



【左上】説明板: 平成10年に実施された試掘調査で、畝掘や古道跡が確認されたと書か
    れて いる。
【右上】主郭: 上面は削平されている。
【左上】主郭にある石積み。当時の物かは不明。写真は98年10月に撮影
【右上】主郭部の西に、畑として残る削平地。先端に土塁状の物がある。正面から右側の
     林の中に大空堀が残る。
【左上】腰郭?(林の中の中段)と大空堀(下の帯状に白く写っている部分)を見たもの。
     写真は98年10月に撮影
【右上】大空堀の外側を通る、間道と思われる溝状遺構で、左が城側の土塁。右下側に採
     石場が迫っている為に、少し先から右の土塁状地形は削られていが、踏み跡が残
     って いるので、最近まで使われていたのかも知れない。


【道】
国道246号を山北方面から向うと、清水橋交差点を過ぎ、
300m程行った中央分離帯が切れている所を右折し、細
い道を上って行きます。途中、切り替えして鋭角に上って
道なりに行くと、右側に説明板が立つ主郭へ着きます。1台
止められるスペースが有ります。