本栖城



形式 山城 【位置】
本栖湖の東の烏帽子岳から伸びる尾根上にあり、裾を中道往還が通っている要衝に位置している。
年代 戦国時代
城主 九一色衆
遺構 郭・堀切・石積・烽火台
所在地 富士河口湖町本栖
訪城日 2007.4.18


【歴史】
戦国時代に駿河との国境にある事から、境目の城として造られたものと思われ、九一色衆(渡辺囚獄佑他十七人)と言われる武士団によって守られていたと思われる。武田家が滅び、北条氏と徳川氏との甲斐争奪が始まると、徳川氏が中道往還から甲斐へ入る折に、九一色衆は徳川方に付き朱印状を授かっている。



【遺構】
本栖城の遺構は長さ400mの尾根上に良く残っている。鳥瞰図の左側尾根先から登ると、最初の堀切からが城域のようである。一の堀切と二の堀切は近距離にあり、岩尾根を切って造られている。堀切を過ぎると傾斜のある7の小郭があり、その先には岩を掘り込んだ三・四の堀切で防御している。また四の堀切を3の郭小テラスからも狙える造りになっている。3の郭は平で細長く、途中から2の郭側が狭くなっていて、堀切側の縁に石積を用いている。2の郭は前面に土塁があり、下の縁に石積を使っている。主郭は56m×11m程で土塁は見当たらないが、全面が少し高くなっている。北側尾根には6の郭があり、石積で出来た虎口状遺構が残っていて、下にも小郭が見られる事から、登り路があったと思われる。4の郭は主郭下に腰郭があり、先端部に石積が見え、続いて細長な郭がある。先端には溶岩石を積んだL字型の5の石塁が残り、烽火台と説明板にある。その西には岩盤を掘り込んだ堀切が残り、ここから先は岩場の細尾根が続き、両側が絶壁となり一人づつしか通れないので侵入は困難を極める。その先には最後の堀切と岩の小ピークがあり、城域の西端と思われる。
九一色衆の渡辺囚獄佑の屋敷址と墓が、本栖の信号から湖畔方向へ入った右側に残っている。


【左上】一の堀切を尾根先側から見たもの。
【右上】三の堀切を斜めから見たもの。ここから高度を増していく。
【左上】四の堀切を3の郭側から見下ろしたもの。断面に岩盤が見えている。
【右上】3の郭内部で、2の郭側を見たもの。奥で狭まっている。
【左上】2の郭を主郭から見たもの。狭い事が分かり、手前には溶岩石の石積が見える。
【右上】主郭内部の2の郭側を見たもの。先端部が少し高くなっているのが分かる。
【左上】主郭南側の石積。崩れず良く残っている。
【右上】4の郭から腰郭(手前)、主郭を見たもの。
【左上】4の郭先端に残る5の石積。烽火台と説明板があるが、実際は石塁と思われる。
【右上】左写真の石塁下の五の堀切を石塁側から見たもの。岩尾根を掘り込んでいる。
     同行の馬念さんとのりおさん。
【左上】最後の六の堀切を城内側から見たもの。この堀切を越える事はかなり困難な為、
     狙撃ちされる。
【右上】南の山麓に残る石積で囲われた場所。樹海の中には溶岩石を積んだ長い石塁
     や、L字型の石塁などがあり、本栖城との関連性があると思われる。


【道】
国道139号線を本栖湖から精進湖方面へ向うと、本栖の信号を過ぎて、次の上九一色中学校入口の信号を過ぎると左から城山の尾根が伸びて来た直ぐ先の左側に2台程の駐車スペースがある。少車道を戻り右のガードレールを越えると登り道があり、案内板も立っている。