岡崎城


形式 丘城 【位置】
平塚市岡崎と伊勢原市岡崎の境にある無量寺から、南へ延びる尾根上に位置し、尾根の先端周辺は西海地土腐の湿地帯が広がる要害地。
年代 室町時代
城主 三浦道寸
遺構 郭・堀切・空堀
訪城日 2012.10.24日
参考資料 日本城郭大系・神奈川の城・相模岡崎城跡総合調査報告書


【歴史】
明応3年(1494)三浦道寸が、義父の三浦時高を三浦氏三崎町小網代にある新井城に滅ぼし、その後子の義意を新井城に置き、自らは平塚市岡崎の岡崎城へ入り近隣を領有していた。明応四年九月(1495)、西相模一帯を領有していた大森藤頼が、突如伊豆の北条早雲に攻め落とされると言う事件が起こり、大森藤頼は同寸を頼って岡崎城まで逃れて来る。この事件の通説は、早雲が箱根で狩をするので、勢子を箱根山中に入れると偽って大森氏を安心させて、千頭の牛の角に松明を付け箱根の山を駆け下らせて小田原城を攻め落とした、と言う話しです。その後、大森藤頼と共に17年が過ぎた永正九年(1512)八月に、相模中央へ勢力を伸ばしてきた早雲によって遂に岡崎城総攻撃が始まり、支えきれず遂に落城してしまう。同寸と藤頼は逗子の住吉城へ逃れ、更に子の義意が籠る新井城へ入った。



【遺構】
現在、無量寺西側の一の郭を中心に遺構が良い状態で残っている。無量寺は館跡と思われ、以前は土塁で囲われていた様であるが、現在は削平されてしまい殆ど残っていない。館跡の西には空堀跡1を挟んで一段高く一の郭があり、長方形を成し南端には堀切7に面して腰郭状の微高低差が見られ、ここへ上る通路が西側下の腰郭に見られ、ここが虎口と思われる。北西には入り堀3を挟んで西側を睨んだ郭2が残り、西側の地続きには空堀4で侵入を防ぎ、南端は竪堀状に下る処理をしている。二の郭は、幅が広く鉄砲を意識させる大堀切7と9で区画され、外側の三面には幅1mの犬走りが回り、西側には腰郭が附属する。三の郭は西側に尾根が派生している為、10の帯郭を伴い尾根側に突き出た部分があり、櫓が有ったと思われる。南側は七段程の段郭状になり、東側には堀切状の地形が見られ、西側には土塁地形が残る。郭11は段郭を伴い谷戸を囲むようにカーブし、三の郭先端へ取り付いた敵に対してここより出撃して背後を突ける様になっている。また、館跡から北東の尾根上14には、現在畑地や山林となっているが郭地形と切岸が残っており、北側への備えと思われる。
時代的には、郭間の堀切は大きいが、全体的に技巧的な造りは見られず、三道寸から北条早雲時代の使用で、その後は放棄されたのではないか。


【左上】一の郭内部を南側から撮ったもの。右奥に無量寺の館跡がある。
【右上】一の郭の西側腰郭と切岸。右手前には、南腰郭へ上る虎口通路がある。
【左上】一の郭と二の郭間の大堀切を東側から撮ったもの。左が二の郭。
【右上】二の郭東側の犬走りで幅は1m程。
【左上】二の郭内部を南側から撮ったもので、綺麗に削平されている。奥が一の郭。
【右上】東側下から見た二の郭の城壁。埋もれているが、垂直に近い。
【左上】二の郭と三の郭間の大堀切を三の郭から撮ったもの。郭間の通路がハッキリしないが、
     西側の腰郭間に橋を渡していたのではないか。
【右上】三の郭の段状地形であるが、当時のものか近年の耕作によるものかは分からない。
【左上】2の西郭内部。西側の岡続きに対処している。
【右上】14の尾根上に見られる郭地形。


【道】
伊勢原市岡崎にある無量寺を見差し、お寺の前面や側面の道路に路駐し、巡ると良い。