岡崎南部方形囲郭群



形式 丘城
年代 室町時代中期
城主 不明
遺構 郭・土塁・空堀・櫓台
所在地 平塚市岡崎
訪城日 2006.10.9


城地は、伊勢原丘陵が平塚の平野へ張り出した南端部にあり、周りには西海地土腐(さいかちとぶ)と言われる低湿地帯が広がり、天然の要害地であった。南東郭(大台)は、南東と北へ分かれて延びる尾根の基部に位置している。西郭(岡崎神社)は、岡崎神社を中心に北へ舌状に伸びる尾根の最高所に位置している。また、500m離れた北の丘陵上には岡崎城がある。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、岡崎の地を領していた岡崎氏と、その後の領主近藤氏の岡崎城は、遺構の形態から見て無量寺周辺の岡崎城ではなく、こちらの西郭・南東郭が方形で古く、妥当と思われる。康正2年(1456)に三浦介時高が岡崎城を乗っ取り、無量寺一帯に新城を築き、周辺地域を治めた。三浦道寸の時代になり、明応四年九月(1495)、西相模一帯を領有していた大森藤頼が、突如伊豆の北条早雲に攻め落とされると言う事件が起こり、大森藤頼は道寸を頼って岡崎城まで逃れて来た。この頃から同寸は、早雲を意識して周辺の台地上に点在していた古郭を取り立て、新たに堀をうがち、土塁を盛って郭を造り、外郭として取り入れて行ったと思われ、永正九年八月(1512)の早雲による岡崎城攻めの時には、既に出来上がっていた様である。しかし世の情勢は刻々と変るもの。大森氏の諸城も次々と落とされ、岡崎城に迫った北条勢に対し、この時には大城郭を守り切れる軍勢はもはや居らず、この囲郭群は放棄されたものと思われる。
 





南東郭

南東郭は55m四方の方形で、西・南・東側の三方を土塁で囲まれているが、元々は四方に有ったと思われる。西側には斜面に二段の削平地が付属し、南側は幅8m程の腰郭があり、前面には西海地土腐が広がる。また、南東側には尾根が延びており、郭だったと思われる畑が二段程と腰郭が確認できる。櫓台の位置もこの尾根側にあるので、主攻方向と思われる。北側は、尾根表面とはかなりの段差を持っている事が分かる。北側尾根の先端には、大森氏頼が拠ったとされる矢崎城があった。

主郭南側の土塁。左に腰郭がある。
上の写真左の腰郭。
南東隅に残る櫓台跡。


                                           西郭(岡崎神社)

西郭は、岡崎神社の地にあり、主郭(45×50m)と小郭(15×35m)から成り、北へ伸びる尾根の基部に選地していて、南東郭とは尾根続きである。北側尾根には堀切を入れ、隔絶していたが、現在堀切は埋め戻されている。虎口は社地の左側にあり、虎口を入ると奥にある小郭へ向うが、右側から横矢が掛かる仕組みになっていて、小郭を抜けてから、主郭へ進むと思われる。小郭と主郭の間には、土塁の断片が残っている。主郭北西隅の一段高い壇は、櫓台の跡と思われる。


岡崎神社を正面から撮ったもの。周りは修築され、古城としての面影は無い。
上の写真の左端しから奥の小郭を撮ったもの。小郭の入り口まで横矢が掛かる。
主郭側と小郭との間の土塁断片。大木の根本にある。



小田原厚木道路側道の岡崎の信号を西へ曲がり、一つ目の
信号を右折し、Y字路を右へ上って行くと左に岡崎神社の西郭
へ着く。そこから右へ行くと南東郭である。車は神社前の駐車
場に置ける。