新府城


形式 平山城 【位置】釜無川が作り出した七里岩の断崖上の要害地にある。
年代 天正9年(1581)〜天正10年
城主 武田勝頼,徳川家康本陣
遺構 郭・土塁・出構・堀・桝形虎口・丸馬出し・井戸
所在地 韮崎市中田町中条
訪城日 2014.6.25日



城址北側の東出構。右奥には西出構が写っている。


城址南側の丸馬出しに付随する三日月堀。 丸馬出しを桝形虎口側から見る。縁の土塁は無い。
丸馬出しから桝形虎口を抜けて振り返って撮影。 東三の丸。左側に西三の丸土塁が写っている。
西三の丸内部。 西三の丸から東三の丸間の土塁。
西三の丸の西下の郭。三の丸はただ広いだけで何ら技巧的な構造は見られないので、
各役所があり、戦時には駐屯地としての使用が考えられる。
三の丸から本丸腰郭への喰い違い虎口。右奥が本丸。
喰い違い虎口を抜けた腰郭。全体的に直線的な長い土塁や郭が多い。 本丸から三の丸への桝形虎口。手前が本丸。
本丸南側の土塁。 本丸の南側から北側を見る。ただただ広い本丸。当時は内部も土塁や木柵で仕切られて
いたのでしょうか。
本丸北端にある武田勝頼公の供養塔。 本丸北西端の桝形虎口跡。かなり埋没している様だ。
本丸と二の丸間の腰郭。奥が二の丸 本丸側から二の丸を見る。微高低差で二段になっており、外側の奥(西側)が少し高い。
二の丸奥から本丸側を見たところ。 二の丸南側の郭。藪が多く整備されていない。右手前に土塁の切れ目が有り、虎口と
思われる。
二の丸の北に位置する井戸跡。 城址の北側にある東出構を城内側から見る。
城址北側の帯郭を東側から見る。左側が本丸。 東出構を正面から見る。長方形をしていて、周りは堀が廻っていたのでもっと高低差が
あった。
北側の堀から内部へ入る空堀。中央には橋が架かっていた。 搦手の馬出し内部。奥が桝形虎口。
搦手の桝形虎口を外側から見る。武田勝頼は穴山梅雪の提案により、府中の城下町が
整って栄えていた躑躅ヶ崎館や要害山城・南城などを捨て、韮崎の辺鄙な地に築城したが、
居城を変える事により莫大な資金が必要となり、家臣への重い資金供出などが離反の
原因となった。

天正壬午の乱では、北条氏直が若神子城に入るとコ川家康はここ新府城に本陣を置き、
北西に能見城防塁を築城し北条軍に対した。