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【左】位置1:主郭西方の尾根、大手道を押さえる郭の一つ。左奥には下段の郭から の虎口と手前には上段への木戸(右写真)が残る。 【右】郭内から木戸の石積を見たもの。今回、肥後さんとの訪城で木戸跡と思われる 形状の石積を発見できた。ポインタを画像にあてると拡大画像。 |
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【左】位置2:1の上の郭で「米蔵」と記入の絵図もある。枡形虎口が良く分かり、 発掘調査もされている。 【右】位置3:主郭西側の虎口を主郭から見たもの。食い違いにも見えるが、平虎口 のようだ。 |
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【左】位置4:本曲輪と土塁。南東の米曲輪への虎口と東には枡形虎口が見られる。 案内板の古城図には、L字に残る土塁の両端に櫓が表記されている。 【右】位置5:本曲輪南の米曲輪。左が本曲輪の土塁で、奥が土蔵曲輪。 |
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【左】位置6:主郭北西下の米曲輪。二段になっていた事が分かる。左が本曲輪。 右には下の米蔵への道が分かる。 【右】位置7:土蔵曲輪で、石列遺構が表面に見られ、この内側下方には発掘に より山石と砂利が敷き詰められている事が分かり、兵糧庫があったと思わ れる。太鼓曲輪側には枡形虎口と土塁が見られる。ポインタを画像にあて ると、黄色点線が石列遺構。 |
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【左】位置7:土蔵曲輪の枡形虎口に残る門の基礎部分の石。 【右】位置8:太鼓曲輪とを隔てる堀切を太鼓曲輪側から見たもの。本来は引き橋が 架かっていた。堀切の本曲輪側では縦堀が上面で入り堀となり、小出張りから 狙えるように工夫されている。 |
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【左】位置9:太鼓曲輪。先端部はやや広がり、土塁がL字に残る。背後の堀切側は 狭く、ここを取られた場合、本曲輪側への攻撃をしづらくしている。また南下に は家老屋敷と言われる曲輪には土止めの石積が残っているようだが今回残念 ながら見逃してしまった。 【右】位置10:飯縄曲輪への虎口。現在は飯縄神社への参道が土塁を削り直線で通 じているが、本来は斜め左へ向かい黄色線のように右へ折れ、また左へ折れ、 更に左へ折れる構造であった。ここから飯縄は目前に見えるが、簡単には入 れず北側、東側の帯郭を通り、更に南側へと向かいほぼ1周廻らされ、やっと 木戸へと辿り着くがその間付属郭からも含め全て横矢が掛かる。 |
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【左】位置11:飯縄曲輪の帯郭東の虎口。先には宝ヶ池と言われる井戸が残っている。 【右】位置12:南の鐘撞堂と呼ばれる曲輪(奥)と虎口・土塁。 |
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【左】位置13:飯縄曲輪を鐘撞堂側から見たもの。飯縄曲輪手前には三角形の曲輪が 付属し、木戸へ向う敵に対し横矢が掛かる。 【右】位置14:東尾根の二条の堀切の下方のもの。堀下りも見事で、縦堀へと変わる。 上方の宝ヶ池横にも堀切と曲輪が存在する。 |
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【左】位置15:鷹射場と言われる出曲輪の上段(左側)と中段(手前から右奥)。 中心が高く東が中段、西が下段とに分かれている。 【右】位置16:飯縄曲輪の北の大杉(樹齢900年)が立つ曲輪。左には下の曲輪からの 坂虎口、右には土塁が残っている。奥に見える大杉は城が機能していた頃には 樹齢450年程だったので、内藤氏も伐らずに保護したのであろう。 |
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【左】位置17:本曲輪から北東へ下る尾根に配置された段曲輪の一つ。表面には 石列遺構(手前)が見られ、右のベンチ辺りから下の曲輪への道があり、 斜面には石積(右写真)や散乱した石が多数見られる。 【右】位置18:土止めの為の石積と思われ、傾斜地に使われ、先端で90度折れ て終わっている部分は下の曲輪からの虎口と思われる。 |
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【左】位置19:尾根先端の堀切。埋没して浅くなっている。これより下に 曲輪は無い。 【右】位置20:ここは枡形虎口と思われる形状の虎口が残っている曲輪。土塁上には 小石が密集して見られ、土塁の基礎に使われた物か。また虎口内の所々に 石積と思われる形跡がある。ポインタをあてると逆からの画像。 |
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【左】位置21:この曲輪は、本曲輪の案内板によると「松尾米蔵」とされており、北西 側(奥の左から右へ)に土塁を持つ。
【右】位置22:曲輪面より山側に一列に並ぶ石積が綺麗に残っていて、保存状態は良い。 |
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【左】位置22:この曲輪には、石積の他に虎口と土塁も見られる。 【右】位置23:22の曲輪の下に位置し、北側を土塁で防御して先端に食違い虎口を有 する。左へ折れると下の曲輪への道が続いている。 |
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【左】位置24:家老屋敷と言われる曲輪で、西側面と東側面に石積が発掘されている。
【右】位置24下:家老屋敷の一段下には三角形の曲輪があり、更に下にも三日月状の 腰郭が残る。 |