形式 | 山城 | 【位置】 津久井湖南の城山山頂にあり、甲斐国に隣接していた為、武田氏に対し境目の城としての機能を担っていた。また、近くには八王子道と津久井往還が通り交通の要衝であった。 |
年代 | 戦国時代 | |
城主 | 内藤氏 | |
遺構 | 郭・屋敷跡・虎口・土塁・堀切・縦堀・石積・石列・井戸・井戸跡 | |
所在地 | 相模原市城山町 | |
訪城日 | 2008.7.12 | |
参考資料 | 日本城郭大系・中世城郭事典・「池田家文書相州津久井古城図」 |
津久井湖城山公園駐車場からの眺め |
【歴史】 津久井城の築城時期に付いては詳らかではなく、後北条氏時代に入り、『妙法寺記』には大永四年(1524)に武田信虎勢が津久井城を攻撃している事が書かれているので、この頃には築城されて機能していた事が分かる。津久井衆の領地は甲斐国に隣接していた為、敵半地と言われ双方の支配を受ける事もあり、武田氏に攻め込まれると中立もしくは寝返らざるおえず、辛い立場に有ったとも言える。永禄十二年(1569)の武田信玄の小田原攻めでの城主内藤氏の動向が不可解で、恐らく寝返らざる負えなかった為に信玄の臣、小幡氏によって落城したのではないか。津久井城の普請に付いての記述は、永禄十二年(1569)と思われる足利義氏から小山弾正大弼への手紙で知られ、また天正十八年(1590)の小田原の役に際しても『内藤景豊印判状』により普請の様子が分かる。小田原の役時には、内藤景豊は小田原城に籠もっていた為、家臣150騎で守っていたが徳川勢の本多忠勝・平岩親吉・戸田忠次・鳥居元忠・松平康貞により落とされた。家康の直書には「請取」の文言なので開城したとも取れる。その後、廃城になった。発掘調査により、廃城時に城破りが行われた事が分かり、土塁が崩され空堀が埋められたようだ。 |
【道】 国道413号線を橋本から向うと、城山ダム上を通り「太井」の信号を過ぎ、左手のトヨタカローラ神奈川の先の信号を左折し道成りに進むと右カーブの左手に神社が見え、その先の左に「津久井湖城山公園」の案内板があり、左折すると駐車場がある。管理棟には津久井城に関する資料があるので、頂いて行くと良い。登城道はハイキングコースが数本ある。 |