形式 | 山城 | 【位置】 石老山の東の裾が道志川に接する断崖上の台地に位置し、「信玄道」と言われた鎌倉街道が台地中央を横断している要衝である。 |
年代 | 戦国時代 | |
城主 | 不明 | |
遺構 | 郭・土塁・空堀 | |
所在地 | 相模湖町寸沢嵐道志 | |
訪城日 | 2008.2.27 | |
参考資料 | 日本城郭大系,東国の中世城郭 |
【歴史】 上の山城に関する資料は見付かっておらず詳細は不明である。『小田原衆所領役帳』の津久井衆の項に、「二貫三百二十七文 野呂左京亮屋敷」と記され、現在その子孫の方の屋敷が城址の東側にある。城は城番制によって野呂氏が管理をしていたと思われます。。 |
【遺構】 上の山城の遺構は、主郭を中心に郭・土塁・横堀・竪堀・堀切・虎口の遺構が良好に残っていて、全方向からの侵入に対処した縄張りになっています。 先ず北側の石段を上がると右に水槽小屋のある小郭があり、奥の土塁状の通路が四の郭虎口へ通じています。四の郭は平坦で割りと広いが土塁は無く、三の郭側には両端に土橋を持つ横堀が残り、三の郭へは横堀西側の土橋を渡り、腰郭へ入ってから坂の通路を上る。郭内はやや狭く、西側に土塁があり、基部には浅い溝が左へ折れているので二の郭への枡形虎口であったようです。進むと神社の背後から二の郭へ入り、正面には主郭の城壁が迫る。南西端は縦堀で先へ続く帯郭との通路を狭めている。南東方向は主郭の帯郭となり、主郭南側へ折れて主郭西側の帯郭の低い切岸に突き当たって終わる。その西下には低い段差で腰郭があり、この下辺りから郭7への橋が掛っていたのかも知れませんが、郭7との高さが合わないので難しい所です。二の郭から主郭への道は、南西の竪堀で狭められた通路を通り、主郭に付属する腰郭に入り虎口を抜けて主郭へ至ると思われますが、主郭の東側にも踏み跡があります。堀切8は幅10m程で、郭7との段差が少なくなっているので埋没しているようです。また、堀切と郭7内部は現在藪が多くなっており、表面観察が難しい状態です。堀切8の西側下から、郭7には帯郭が繋がっていて、これを進むと堀切9に着きます。ここが城域の南端で背後の尾根からの侵入を遮断しています。堀幅は10m程あり、尾根側の西端には、土塁状の出っ張りが見られ、郭7との連絡用の橋の橋台だったと思われます。一方、四の郭から主郭までの東側は、帯郭や腰郭、竪堀によって守備を固めており、城主であったと思われる邸宅が、東側に現在も続いて居られます。城の規模は大きくはありませんが、テクニカルな技法を用いており、主郭より北側は城内への導入を意識し、南側は堀切による遮断を採り入れて、西は沢を自然の堀としています。虎口や堀切の幅などから後北条氏後期の縄張りと思われ、お勧めの古城址です。近くには大学があり、道幅も拡げられていますので、将来のどかなこの地に開発の手が及ばない事を願っています。 |
【左上】北からの登城口。 【右上】四の郭8内部と三の郭側を撮ったもの。切岸の下に横堀があります。 |
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【左上】三の郭と、二の郭への枡形虎口。 【右上】二の郭内部を南西端から三の郭方向を撮ったもの。 |
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【左上】二の郭南東から主郭の東側城壁と、帯郭を撮ったもの。 【右上】左上写真の帯郭で、主郭南下へ続く狭まった所を撮ったもの。 |
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【左上】主郭に付属する腰郭から主郭の虎口を撮ったもの。 【右上】主郭に残る土塁。西側中央辺りで、右が主郭内部。 |
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【左上】堀切8を西側から撮ったもの。藪の為、辛うじて堀切と分かる。左が主郭側で、右が郭7。 【右上】堀切8の西下から堀切9まで続く帯郭。堀切9方向を撮ったもの。左の見えるのが藪で覆われた郭7。 |
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【左上】堀切9を西側から撮ったもの。右端には微かに橋台と思われる土塁が見える。 【右上】同じく堀切9を郭7から尾根側を撮ったもの。尾根側は二段の平場(後世のものか)を過ぎると細尾根になる。 |
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【左上】郭7を南東から撮ったもの。左端の林に堀切9がある。 【右上】南側を通る鎌倉街道から城址を見る。右には塚も見える。城址のある長閑な小さい台地に立つと、戦国期が終って まだ間もない時代に居るような気さえしてしまう。 |
【道】 国道412号線を厚木から相模湖へ向かい、道志橋を渡り、「帝京大前」の信号を左折し、帝京大薬学部を過ぎて少し行くとT字路を左折。道なりに行き、清光禅寺を過ぎ少し行くと左に直角に曲がり少し進むと直線になり右に立派な門構えの家がある。その道の左側に空地があるので、片輪を乗せて駐車可能。来た道を振り返った先に、上の写真の登り口がある。階段を上れば直ぐです。 |