湯坂城



形式 尾根城 【位置】
早川と須雲川が合流し、鎌倉古道である湯坂道が通る湯坂山に築かれている。
年代 大森氏・後北条氏
城主 同上
遺構 土塁・郭・堀切
所在地 箱根町湯本
訪城日 2007.10.31
参考資料 箱根をめぐる古城30選


【歴史】
応永二十五年(1418)に、上杉禅秀の乱にで足利持氏を助けた大森氏は、戦功により小田原へ進出し、箱根や足柄方面の古道を押さえる為に城砦を築き、地域支配を進めていった。湯坂城もその内の一城で、後北条氏の時代にも使われたようである。



【遺構】
遺構は二郭と三郭間の堀切を境に、古い形態の西部遺構群と新しい形態の東部遺構群に分かれる。
【西部遺構群】西方の尾根を下りて来ると、一郭の手前で堀切があるが現在はかなり埋没している。堀切を越えた正面には土塁が立ちはだかり、左側が少し高い。古道は土塁の左端しを回る様に一郭へと入っていたと思われる。一郭の土塁はコの字型で二郭と似ている造りで、二郭側に面した所は櫓台のようである。一郭と二郭間の堀切は、一郭寄りに掘られ二郭側には腰郭状の平坦面が付随している。二郭へ入る道も土塁の左端を回る様に入る。
【東側遺構群】古い形態の西部の二郭に比べ、新しく複雑な造りで幅も広くなっている。高低差は三郭から六郭へ低くなる。二・三郭間の堀切は食い違い堀切で、南側の堀底や三郭斜面には岩が露出している。三郭の堀切側は土塁がL時に残っているが、四郭と共に藪がひどく、区別も難しい。五郭と五郭南側は藪は比較的少な目で、遺構の確認はし易い。五郭から五郭南側への通路の土塁には石積の様な物が部分的に見られ、五郭南斜面から三郭南斜面に掛けて古道もしくは帯郭状のテラスが見られる。五郭から六郭へ下りる現在のハイキング道の南にも六郭へ下りるスロープが見られる。古い形態と新しい形態の郭が残り、時代の変化が分かる城址である。


【左上】箱根から下りて来て最初の堀切を、ハイキング道から南側を見たもの。
【右上】左上写真の堀切(手前)を隔てて一郭の土塁を見たもの。古道は土塁の左端を
     通っている。
【左上】一郭の内部を二郭側から見たもの。左側に土塁が残っているが、ハイキング道を
     除き藪が多い。
【右上】一郭の二郭側の土塁をハイキング道から見たもの。
【左上】一郭と二郭間の堀切。埋没しているが、南側斜面には掘り下りが残っている。
【右上】二郭の一郭側土塁(右)と腰郭(左)を南側から見たもの。
【左上】二郭と三郭間の食い違い堀切を二郭側から見たもの。埋没しているが、道が
     クランクしていて分かる。
【右上】左上写真の右奥(南側)の堀下りを下から見たもの。右側の三郭斜面には岩が
     ある。
【左上】五郭内部を四郭から見たもの。正面の溝は六郭へ下りる道。
【右上】五郭南側の郭面。
【左】六郭の郭面の一部。道を挟んで両側
   にある。


【道】
国道1号線を箱根湯本駅前を過ぎ、函嶺洞門の少し手前の左側に「湯坂道」の表示がありますので、ここから30分程登ると城址です。車は函嶺洞門を潜る直ぐ手前右側に、橋を渡って以前、観光会館がありましたが、私が訪城しました2007.10.31には、壊されフェンスが張られていましたが、橋の入口へ置く事が出来ました。現在の状況は不明ですので、予め調べて下さい。