五合枡陣城


形式 山城 【位置】
稲村ヶ崎から少し鎌倉側寄りの霊山山頂にあり、極楽寺切通しを睨んでいる。また南尾根の斜面には仏法寺跡がある。
年代 鎌倉時代〜
城主 不明
遺構 郭・土塁・虎口・塚
所在地 鎌倉市坂下・極楽寺1丁目
訪城日 2009.11.18
参考資料 中世城郭研究会第21号


【歴史】
元弘三年(1333)、新田義貞軍が鎌倉へ討ち入りした元弘の乱の記載がある『梅松論』には、五月十八日新田軍の海側を攻める大将、大館宗氏が稲瀬川で討死して、残った軍勢が霊山の頂(五合枡陣城か)に陣を張り、二十二日まで山内・巨福呂坂・極楽寺の切り通しを含め、激戦が行われた事が書かれている。



【遺構】
五合枡陣城は発掘調査の結果、13世紀後半に築城された事が、かわらけや卸ろし皿の遺物で分かったそうです。
霊山の山頂に鎌倉側を主攻方向として、南北に四・五段の郭を直線的に配置した陣城である。鳥瞰図1.の大土塁は山頂を南北に分けており、城域の南端とも思われるが、9.の平場には14世紀期頃の塚があり、南側に対する郭だったと思われる。2.3.4.の郭は方形で雛壇状に並ぶ。
5.の郭は三方を土塁で囲われ、厳重な造りである。南の土塁内側には、今回の訪城では藪が多く確認していないが、矢を射る為の櫓台の様な土壇があるそうだ。北東に虎口があり、出た先には尾根が極楽寺切通しへ下っているので、切通しを意識していると思われる。1.の大土塁西側にある6.の平場は、西と南西へ下る尾根筋への構えで、南西の尾根側面には谷からの侵入に備えて、谷の突当りや尾根側面に平場を設けている。また、五合枡と似た囲郭を有する一升枡陣城が、極楽寺切り通しを挟んだ反対側の尾根に残っている。


【左】尾根を南北に分ける大土塁。
【右】大土塁から北へ折れる土塁の先端。右側には上1郭がある。
【左】上1郭を土塁越しに撮ったもの。右が大土塁。
【右】上3郭を先端側から撮ったもの。藪が多いが、平らなようだ。
【左】下1郭を上3郭の端から見下ろして撮ったもの。
【右】鳥瞰図9.の削平地を南側から撮ったもの。正面奥が大土塁で、右奥に塚があるが藪と一体化してしまっている。
【左】南西に下る尾根の側面に残る平場。左上が尾根で右下が谷地形。人工的であると分かる。
【右】五合枡の南へ続く尾根を、25m程歩いた所から左側へ下る道を行くと仏法寺跡の平場へ出る。
   一段高い平場(寺跡か)や、今でも水が湿る池跡があり、五輪塔と宝篋印塔が立っていた。


【道】
江ノ電の極楽寺駅の改札を出ると、正面の上方に谷戸地形の墓
地がある。左側に階段があるので上り、右側(道路側)の奥の墓
地の横から尾根先への踏み跡があり、尾根上にはしっかりした踏
み跡が山頂まで続いているので迷う事はない。


画像は、ホームからの撮影。改札口は右側。