一升枡陣城


形式 尾根城 【位置】
極楽寺切通し方面から大仏坂切通しへ繋がる尾根上にあり、大仏坂切通しへの古道を抑える鎌倉城の一拠点と思われる。
年代 鎌倉時代
城主 不明
遺構 曲輪・土塁・虎口・堀切
所在地 鎌倉市極楽寺2丁目・4丁目
訪城日 2009.11.18、12.13
参考資料 中世城郭研究第21号


【歴史】
一升枡陣城に付いての詳細は不明であるが、南東に位置する五合枡陣城と同じく発掘調査の結果,出土品から13世紀後半期の築城とされている。



【遺構】
尾根の最高所1.を本曲輪とし、大小八つの尾根が分岐する位置に築かれている。本曲輪から東へ繋がる尾根は7.の二本の土橋が掛る堀切で防御しているが、土橋間の窪みの用途は井戸だったのか?本曲輪西側は現在住宅が建ち並んでいる為に、遺構が分からない状態であるが、本来は堀切があったのではないかと言われている。
一方、南へ下る尾根には段差を持った堀切6.と土塁が見られ、堀下りも良く残っている。2.の南1曲輪は南に傾斜していて、5.の堀切の痕跡程度の窪みを越えると3.の土塁で四方を囲われた南2曲輪がある。台形をし、南西の角に平虎口が見られるが、搦手口が見当たらない。城道は虎口を出ると西土塁下を通る古道8.に合流して下っている。
南東へ下る尾根にも8.の堀割地形を伴った古道が下り、途中で尾根が分かれる。一升枡陣城と五合枡陣城は、発掘調査で鎌倉期の築城とされているが、虎口から尾根の200m先の尾根先端に、虎口遺構が残っており、室町期にも鎌倉を守る砦として使用されたのではないか。


【左】本曲輪の東にある堀切7.を、本曲輪側から撮ったもの。黄色線の部分が二本の土橋。
【右】同じく堀切7.を横から撮ったもの。左が本曲輪側。
【左】1.の本曲輪の内部。削平されているが藪が多く、内部は観察しづらい。
【右】6.の堀切の東側堀下りから撮ったもの。左側が2.の南1曲輪の土塁。
【左】2.の南1曲輪内部を本曲輪側から撮ったもの。奥に3.の一升枡の土塁が見える。
【右】3.の一升枡の北側土塁を北東角から撮ったもの。左が枡内部。四方の土塁で一番高い。
【左】一升枡の北側土塁(手前)と、西側土塁(奥)で、左奥は虎口。
【右】北側土塁の西角から西側土塁を撮ったもの。
【左】西角から枡内を撮ったもの。中央が虎口。
【右】枡内から虎口を撮ったもの。
【左】一升枡の、南西にある虎口から尾根を下ると、先端には五段の平場を構えた虎口遺構が残っている。
   下から二段目の扇状の郭。
【右】扇状の郭の、更に下にある郭。ここから一升枡までは約200mである。


【道】
江ノ電の極楽寺駅改札を出て左へ歩き、少しで左折して江ノ電を越えて進む。稲村ヶ崎小学校の所を右折し、極楽寺鍼灸院入口の看板から150m程歩き左へ折れる道を歩いて行くと、舗装路は右へ行くが、真っ直ぐ山道を行くと写真のゲートに着く。脇から入り、左の木の階段を5分程上って行くと一升枡陣城に着く。