生土城



形式 山城 【位置】
生土の城山山頂より南側へ張り出した部分にあり、南麓を鮎沢川が流れている。
年代 応永頃か
城主 足利持氏か
遺構 削平地・堀切地形
所在地 小山町生土
訪城日 2007.11.28


【歴史】
生土城に付いては貞享三年(1686)に、小田原藩主が稲葉氏から大久保氏へ代わる際に書かれた、『稲葉家引送書』と『駿河記』等に「足利持氏が三年居住の跡と云」とあるのみで、詳しい事は分からない。



【遺構】
三段程の削平地で構成されているが、下段は形が不明確である。中段は広く綺麗な削平地で、上段側に井戸跡があるが何時の物かは分からない。そこから1.5m程上に上段の削平地があり、城址の表示板や、石碑、祠、以前に祠が置かれていたと思われる石台などが散在する。また、土塁なのか尾根なのか不明な盛土が見られ、北側に堀切だった様な地形があるが、細い土塁状の地形を切っているのみで、削平地は切れておらず、堀切としては疑問である。堀切より北の尾根が高く、「小山町史」ではこちらの方も城址としているが、平面の自然地形が続き遺構らしき地形は見当たらない。『駿河記』(幕末)の城山に付いての記述に、「山上に淡島明神を勧請、阿弥陀堂を建る」とあるので、中段の削平地に阿弥陀堂が建てられ、井戸もその関係で掘られた物かも知れないので、削平地等は江戸期以降に改変された可能性を考慮に入れる必要がある。


【左上】城山登城口の案内板。最初は急斜面で倒木もあるが、道は付いているので迷う
     事は無い。
【右上】土塁状地形から上段(手前)と中段の削平地を見たもの。手前に石碑や城址の
     表示板が見える。
【左上】中段から上段と、土塁状地形を見たもの。
【右上】中段にある井戸跡。中は石積で、上部はコンクリートで補強されていた。
【左上】土塁状地形の中段側先端部。堀切側では少し高くなっている。
【右上】堀切地形。虎口にも見えるが、向こう側は急斜面である。左側には石で囲われた
     ような所があり、ここにも祠が有ったのか。右側は北尾根で城址よりも高く、城内
     を見渡せてしまう。


【道】
国道246号を山北町から小山町方面へ向うと、生土の信号を左へ県道394号を行く。道なりに進み、信号のある交差点で、右の細い道へ曲がります。右角に「音渕公民館」が有ります(goo地図参照)。少しでT字路を右へ行き、次に左へ山裾を上って行きますと、沢を渡る短い橋の手前左側に上の写真の案内板が立っています。車は橋を渡った左側に止めるスペースがあります。