鎌田城



形式 山城 【位置】
伊東大川の上流、松川湖手前の城山山頂にあり、当時は木々が切り払われていた為に展望はとても良かったであろう。
年代 戦国時代
城主 朝倉氏
遺構 郭・空堀・土塁・堀切・馬出
所在地 伊東市鎌田
訪城日 2008.11.26
参考資料 中世城郭事典



歴史】
鎌田城に付いての当時の資料は見付かっていないが、後北条氏時代に伊豆衆の一人、朝倉政元(右京進)がここ鎌田を所領していた事が『小田原所領役帳』に見えるので、朝倉氏の城と思われる。政元は越前朝倉氏の一族で、主家が織田信長に滅ぼされた後、後北条氏に仕えるが小田原の役で北条氏が滅亡すると豊臣秀次に仕え、後に徳川家の家来となって戦国期を生き延び、寛永6年(1629)に84才で没した。



【遺構】
鎌田城が築かれた城山山頂は三角形に縄張りされている。北西尾根のハイキング道から城址へ向かうと、手前100mの尾根に遠構えの堀切があり、ここからが城域となる。進むと二条の堀切と二重馬出、先がL字に折れて竪堀へと変化する横堀と続き土橋を渡って城内入る。一つ目の馬出には背後の堀切側に短いながら土塁を盛り、堀切からの侵入に対処している。主郭は台形で、三の郭8側と郭7側に土塁が残り、南西側にも痕跡が見られ、その下と西側下には帯郭6が延びる。主郭と三の郭8・二の郭9の間は空堀で区切られているが半分程が埋没し、社殿と二の郭の間は土橋で繋がっていたように見える。南西尾根には二条の堀切と腰郭5で守り、北東へ延びる尾根は幅のある一条の堀切で断ち切っている。南東の尾根側は二段の腰郭、二重横堀と馬出しで、北西尾根と同様に厳重に守りを固めているのが分かる。
鎌田城は後北条氏の永禄期における最高技術が使われた城で、修善寺方面から冷川峠を通る古道を監視し、押さえる役割を担っていたのではないか。遺構は城地中央部に建つ社殿周辺以外は良く残っている。

※今回、城址の説明板の縄張り図写真は撮ったものの、説明側を読まず撮らずで帰って来てしまった為に、主郭・二の郭・三の郭の名称や区分けは私の見解となっています。


【左】北西尾根の最初の堀切で、先が城址へ続く尾根。
【右】二番目の堀切で、城側から見たもの。二重馬出手前にあたる。
【左】一つ目の馬出(奥)と堀切を渡る土橋(中央)を城側から見たもの。
【右】左写真の土橋が架かる堀切を一つ目の馬出から見たもの。
【左】二つ目の馬出を城側から見たもの。中央が横堀で、馬出手前には枡形虎口状の
   所があり、正面上は土塁と横堀で固めている。
【右】北東尾根の堀切。左が城側であるが、一条なので他の尾根の堀切に比べ
   て規模が大きい。手前で右に折れて下っている。
【左】主郭(左側)と二の郭(右側)を分ける横堀で、主郭側には土塁が盛られている。
   青い建物が神社。
【右】二の郭を主郭側から見たもの。綺麗に削平されて三角形をしている。
【左】二の郭と主郭の西側下にある帯郭。右端には土塁の痕跡が見られ、奥には空堀のような
   窪みがある。
【右】主郭内部。
【左】主郭の南西側土塁。土塁を越えると【右】写真の堀切と郭7へと続く。
【左】郭7から松川湖を眺め、一息入れましょう。
【右】南東尾根に残る二重堀の城側の堀を土橋から見たもの。奥で右にカーブして
   上っている。
【左】二重堀の尾根側の堀を土橋から見たもの。右へカーブして竪堀と合流して
   下っている。竪堀の上部には二段の段郭も見られる。
【右】二重堀を隔てて馬出を見たもの。土橋が架かる。


【道】
伊東市街地から松川湖(奥野ダム)へ向かう。奥野トンネル手前を左へ曲がり、奥野ダム駐車場へ車を止め、来た道を50mほど戻ると左側に鎌田城へのハイキングコース案内板があるので、ここから徒歩40分で城址に着き、途中道端に炭焼窯跡もある。道は整備され、迷う事も無く遺構の案内板も立っている。