金山城



形式 山城 【位置】
標高342.3mの城山山頂にあり、南側は断崖絶壁である。東には狩野川が流れ、西には三津城・三津新城へと道が繋がり、南には修善寺城・柏久保城が望め、城下地域も一望できる。。
年代 戦国時代
城主 畠山義深・後北条氏
遺構 本城・南出曲輪・北出曲輪(郭・土塁・堀切)
所在地 伊豆の国市神島
訪城日 2008.4.5
参考資料 ふるさと古城の旅・日本城郭大系


【歴史】
金山城は康安元年(1361)十一月に、鎌倉公方足利基氏に離反した畠山国清が領地の伊豆国で五百騎にて金山城(弟・義深)・三津城(弟・義熙)・修善寺城の三城に立て籠もり挙兵した。一度は三百騎の基氏勢を破ったが、再度の来攻により三津城・金山城が先に陥落し、本城の修善寺城で抵抗するが翌年九月十日、遂に開城した。その後、後北条氏の手によって拡張された事は、広い城域を見れば明らかである。



南から南出曲輪(中間左)・本城を見る


【遺構】
金山城は東西600m、南北600mの範囲内に本城・南出曲輪・北出曲輪の三峰があり、遺構は良く残っている。本城の峰は下から見上げると一つ岩で出来た山に見え、山上も岩だらけかと思いきや、詰の郭への尾根に多いだけで南面のみ岩の様だ。両出曲輪では、主要部の郭面を広く取る南出曲輪に対して狭い北出曲輪との縄張りの違いが見られて面白い。本城の主郭には土塁が残り、背後には詰の郭と言える最高所まで尾根が続いていて、ここからの眺めは最高である。現在残る遺構の縄張りや城域の広さから畠山氏が籠もった時代では人数的に守り切れないと思われ、何れかの峰に籠もったと思われる。


南出曲輪



【遺構】
城山の南側にあるハイキングの登山口から登ると、25分位の所に緩い傾斜地の谷間のテラスに着く。虎口があり、右側斜面には小削平地が数段見られ、兵の宿営地と思われる。ここから5分程登るとかつて堀切だったと思われる峠へ着く。左には南出曲輪の虎口遺構が見え、右へ行くと本城である。虎口遺構は堀切に対して前面に櫓台(木が生え小さくなっている)を配し、後ろにも堀切で切ってL字に土塁が残る小郭へと土橋を渡している。その上には三段程の腰郭が見られ、上段郭には東側暖斜面からの攻めに対して、腰郭と三日月型の土塁を配し、両側から横矢が掛かる様になっている。曲輪の中央東斜面には縦堀があり、ここから登って来る敵兵に備えて土塁がある。三日月型の土塁から左へ折れる土塁の小さな痕跡が見られるが、郭内を区切っていた物なのかは分からない。下段郭は東と西に土塁が残り、南東へ下る尾根には小郭と堀切で守っている。下段郭から上段郭への虎口が分かり辛いが、東側土塁の付根辺りと思われる。一方、西へ下る尾根にも堀切と傾斜している削平地が見られ、その下では西側から九十九折で登って来る堀底道だったと思われる古道を北側へ周しており、監視出来る造りである。また、古道は直進して上段郭の壁にぶつかる為にここから正面攻撃にさらされ、道は小さい枡形で90度左へ折れる。遺構は100mの範囲にあり、古道を取り入れた縄張りでほぼ完存。南出曲輪だけでも一城を見た感じである。


【左上】虎口遺構を峠から見たもの。中央の木の根元が小さくなっているが、櫓台と
     思われる。背後には堀切に架かる土橋と小郭がある。
【右上】上段郭の三日月型の土塁で、両側から横矢が掛かる。
【左上】下段郭の東側土塁を上段郭側から見たもの。
【右上】南東尾根に残る堀切を上から見たもの。ここは藪が少なく良く分かる。
【左上】西尾根の堀切を上から見たもの。左には外側土塁が残っている。
【右上】下段郭の上段郭へ真っ直ぐに向う部分の古道跡。


北出曲輪



【遺構】
本城から尾根伝いに北へ向うと、途中にピークがあり、腰郭が一段本城側に付属する。ここを過ぎると左側に緩い谷に段郭を配し、土塁で尾根間を塞いでいる。上段郭の下には帯郭が取巻いており、本城側では傾斜して舌状に張り出している。上段郭は小さい二段程で、虎口はハッキリしない。帯郭の北には腰郭と兵の宿営に適した広い暖斜面が続き、北側には段郭が見られる。上段郭から東へ下る尾根には二条の堀切で守りを固めている。南出曲輪に比べ単純な縄張りである。


【左上】本城から北出曲輪の中間ピークに残る腰郭
【右上】中間ピークと北出曲輪間の土塁。かなり崩れ、基部に入れられていたと思われる
     石が所々露出している。
【左上】上段郭を帯郭から見たもの。形がハッキリしない。
【右上】東尾根側の腰郭。
【左上】東尾根に残るシダで覆われた堀切。
【右上】左の堀切の下にも岩を直線的に削った様な跡と浅い溝が見られるので、
     二重堀切と思われる。


本城



【遺構】
南出曲輪から本城へ向うと、まず右の緩い谷間からの進攻に対し、三段程の段郭を備えて守っている。その左側の尾根の鞍部には本城と西郭とを分離する堀切が有った様だが、ハイキング道により改変されてしまったと思われ、明確には残っていないが、鳥瞰図には表面観察で見た感じを描いてみた。土橋状らしきものも見られるがハッキリ分からない。また、そこから西曲輪へ5m程の所にも浅い溝がある。堀切から東へ少し進むとハイキング道の左に堀状の短い溝があるが、谷からの縦堀だったものが道により埋められたようだ。ここから林へ入ると一段上がり、郭面と横に虎口を備えた土塁がある。その下には北出曲輪に向って郭群が続いている。一方、先程の縦堀から道を主郭方向へ進むと、上記の土塁を備えた郭の延長上に出て、更に主郭下の腰郭や帯郭が左右に見られる。右の腰郭には上段へ上がるスロープ状の道らしいものも見られ、土橋状の通路を通り主郭へ入ったと思われる。主郭は詰の郭から下って来る尾根が広がった場所を削り込んで削平されているようだ。南側の土塁はかなりの高さがあり、また北側の土塁はL字型に残っている。西面下に縄張り図には腰郭状の面の記入があるが、確認しなかった。主郭背後からは、主郭側に対しての構えが残る最高所、詰の郭の遺構が尾根に見られる。小郭や堀切を配し、道を左右に振り、正面の土壇や岩陰から攻撃が出来るよう少人数で有効に守れる工夫が随所に残っている。尾根を塞ぐ大岩の端を削り込んだ切通し虎口は必見。途中にはピークもあり、岩場ではあるが郭跡と思われる。ここから詰の郭までには細長い郭や一条の堀切が見られ、詰の郭は二段の構成である。ここからは城下は勿論、修善寺城・柏久保城・中伊豆の山並み・韮山城砦・箱根山まで見渡せるので、平時は物見台・烽火台として使われていたと思われる。


【左上】本城の北出曲輪寄りの郭に残る土塁を、郭内部から見たもの。
【右上】主郭下の腰郭。
【左上】ハイキング道が通る帯郭から主郭の土塁を見たもので、木の所で右へ折れる。
【右上】土塁上から主郭内を見たもの。藪が多い事が分かる。
【左上】南側の土塁の上を見たもので、右下が主郭。
【右上】主郭から詰の郭への尾根に残る堀切を横から見たもの。土橋は斜めに架けられ、
     右へ廻り込まされる。
【左上】尾根の途中にある大岩の端を削り込んだ切り通し虎口を、主郭側から見た
     ものと、尾根側から見たもの。人一人が通れ、岩の上から二人程で射掛け
     られる。
【右上】左上写真の大岩上から南出曲輪(中央)と山並みの眺め。
【左上】尾根中間のピークに残る小郭の一部。
【右上】詰の郭を下から見たもので、副郭(手前)と詰の郭(上)。
【左】詰の郭からの展望。


【道】
伊豆中央道の大仁中央ICで降り、狩野川に架かる神島橋を渡り、道なりに左方向へ狩野川沿いに狭い道を進むと道が広くなる所の左側にハイカー用の駐車スペースがあり、右側に登山口が見える。ここから南出曲輪の虎口まで30分程です。また、神島橋から城山の北側を通る林道が通じており、整備されたハイキング道が南出曲輪の虎口前の峠を通り、この林道へ下っている。ネットで検索すると峠から8分程で林道に出れるようなので、15分程で登れるようだ。駐車スペースが分からないので、時間に余裕があれば探してみるのも良いかと思う。