北松野城


形式 山城 【位置】
城址南側を富士川の支流が流れ、甲州街道を抑える要衝の地にある。神明宮の裏山がそれである。
年代 戦国時代
城主 萩氏
遺構 郭・堀切・土塁・虎口
所在地 静岡県富士市北松野
訪城日 2012.12.5日
参考資料 静岡県の城跡



【歴史】
城主は今川氏の家臣で、北松野・富士宮市の内房・同じく厚原を領した萩氏である。永禄11年(1568)12月、武田信玄の駿河侵攻に伴い山県昌景が北松野城を攻め、戦いとなった様である。この事は『萩家由来書控』に、萩 昌景が討死しその後、子の久誉は松野郷を安堵され、次子の君誉は武田氏の家臣、穴山信君に仕えた事が書かれている。



【遺構】
城址は廃城当時の状態で、送電線の鉄塔は立っているものの、破壊を免れとても良く残っている。登城は1の虎口遺構から登ると良い。
虎口遺構の西側斜面の石積は、後世の物も混ざっている様に見えるが、尾根先端の二段は当時の物であろう。ここから直ぐには石が纏まって有るので、投石用と思われる。城道は尾根を登った所を左側を通り、右側二の郭5の窪みの虎口へ入る。4の腰郭は尾根に対する構えである。二の郭は平坦で堀切7の手前には櫓台が有り、石が露出した土塁も残る。堀切7はかなり埋まっていて土橋なのか、木橋だったのかは分からない。堀切を渡ると腰郭8がはだかり、その後には三段程の段郭が控え、足場の悪い斜面を12の腰郭へ向かおうとする敵に対し、横矢を掛ける。また腰郭9には投石用の石?も見られる。主郭は東・南・西に土塁が残り、南側には虎口の開口部が何とか読み取れ、西の腰郭からの虎口受けを経て虎口へ入っていたと思われる。腰郭から西へ続く尾根には二重堀切で守りを固め、その先には河原石が積まれた郭を経て堀切二条で完結する。


【左上】尾根先に残る虎口遺構の石積。
【右上】二の郭の内部。
【左上】二の郭背後の堀切。埋没している。
【右上】12の腰郭を西から撮ったもの。ある程度の広さを持つ。
【左上】主郭の内部。
【右上】主郭から横堀を見る。
【左上】主郭西に付属する腰郭17。
【右上】武田流の二重堀切を西側から見たところ。


【道】
東名高速の富士川スマートインターで降り、県道10号から県道76号へ入り、南下し、神明社を目指す。車はそのまま県道76号を少し進むと右側に石碑等がある前に路駐出来る。