高谷城


形式 山城 【位置】
土肥港の北東にある標高867mの伽藍山より派生した、尾根の先端周辺にあり、土肥の町を挟んだ南には支城の丸山城がある。
年代 戦国時代
城主 富永氏
遺構 郭・土塁・石積・堀切・空堀・虎口
所在地 伊豆市大薮
訪城日 2010.1.10
参考資料 土肥・高谷城址(発掘調査報告書)



横堀11


【歴史】
室町期に北条早雲が伊豆を平定するに当たり、この地を領していた富永氏は早雲に従っている。その後、西伊豆の小豪族を取り入れて勢力を拡げ、高谷城や支城の丸山城を築いて北条氏代々に仕えて五家老にも任ぜられ、江戸城・栗橋城の城番も務める大身となる。富永氏らの伊豆水軍の活躍は、永禄年間の対里見水軍や天正八年三月の武田氏との海戦が挙げられる。天正18年(1590)の小田原の役では、高谷城・丸山城共に改修されたとようであるが、両城での合戦記録は無く、城は放棄されたものと思われる。



【遺構】
高谷城の遺構は、1区(三の曲輪と背後の物見台)・2区(二の曲輪から9の堀切まで)・3区(主曲輪から12の横堀の尾根筋)・4区(土肥峠へ続く尾根上の出城二ヶ所)の四区域に分けられる。
1区は、完成度の高い三の曲輪が主体で、東辺には土塁と南東に旧入江(船着場)を睨んだ物見台2が残る。この物見台は西側を削られた痕跡があるので、以前は方形をしていたようだ。その南下には腰曲輪が五段程見られ、その内の曲輪3では平成8年の発掘調査で、南へ延びる曲輪の中程の段差に石積と西縁に土塁が出土したが、下を通る道路の拡張工事によって消失たようである。一方、北側には1区を二分する大堀切4を構え、その北は段々畑が造られて本来の形状が分からなくなっているが、頂部には西辺に土塁が残ると言われ、北西方面の海上と、二の曲輪6間の古道を監視する為の物見台5を置いてる。ここは今回未探査である。
2区の二の曲輪6は、畑地としての改変が著しいので、段曲輪状の畑地跡で囲まれているが、何処までが遺構なのかは判断が難しい状態である。大堀切9は二の曲輪方面と主曲輪方面とを分断し、西側の堀下りは段状に残っている。大堀切を挟んだ二の曲輪側には櫓台地形と小郭があり、高さも主曲輪側より2m高く、更に主曲輪側は堀切に向かって傾斜している為、櫓台や小郭から狙い易く、二の曲輪側を守る意図が感じられる。
大堀切9を越えて3区に入ると尾根がT字に分かれ、左へ進むと数段の段曲輪状の畑地跡が残り、堀切10に着く。左側に浅い堀と右側には幅広の竪堀が下り、横移動を困難にしている。堀切の先には、尾根に沿うように掘られた北条氏特有の屈折した横堀が見られ、傾斜と共に下り、小土肥方面からの侵攻に備えている。一方、主曲輪方面へ戻ると、主曲輪手前に堀切13があり、合流した尾根を断ち切っていたと思われ、主曲輪14側の腰曲輪には堀切へ対する腰曲輪状の畑地が二段見られる。また、主曲輪の東側にも段差を違えた腰曲輪状の畑地が残り、主曲輪の切岸には所どころに石積みが露出しているが、当時の物かは分からない。主曲輪の東には、下の諏訪神社脇から上って来る山道があり、途中を東へ分岐すると谷地形であるが、ここが土肥峠からの尾根を遮断する堀切16だったようである。この堀切の東側には、屈折した堀底道が見られ興味深い。ここより道を東の土肥峠へ向かって600m、標高を120mほど登ると4区の出城Aに着き、更に800m程進んだ標高382mの稜線上に、出城Bが発見されている。また、清雲寺の裏山(117m)にも、物見台遺構が見付かっている。


【左】三の曲輪1にある物見台2方向を見る。左側には土塁が見え、物見台は高さ2m程
   ある。
【右】三の曲輪1から5の物見台(左のピーク)と、二の曲輪6(右のピーク)を見る。
【左】腰曲輪3の東側から撮ったもの。
【右】大堀切4を東側から見る。(左側が三の曲輪)
【左】6の二の曲輪を背後に続く尾根の括れから見る。冬でも藪は多いが形状は
   把握できる。
【右】8の櫓台を大堀切9側の小郭から見る。
【左】9の大堀切。左側に櫓台8がある。ここは藪が少なく良く見える。
【右】10の堀切。左側の小さく浅い堀下り。
【左】10の堀切の右側堀下り。
【右】11の横堀。左側に土塁が見える。埋没して浅くなっているが、良く残っている。
   右側の尾根稜線上は幅が狭いので、堀に沿って犬走りがあったのではないか。
   奥には更に下って堀が続いている。
【左】11の横堀を稜線上から見下ろす。
【右】横堀は一旦、曲輪状の畑地へ出て、更に12の横堀が下っている。
【左】13の堀切を主曲輪側から見る。
【右】14の主曲輪内部。畑地として開墾されている為、土塁や堀地形は見当たらない。
【左】腰曲輪15から主曲輪の切岸を見る。
   削平地が全て当時の形なのかは
   分からなくなっている為、今後の調査
   を待ちたい。


【道】
車は土肥漁港の駐車場へ止め、旅館なかはらやへ向かう山道を歩いて行き、旅館を右手に見ながら更に進むと左へ分かれる畑道へ入ると、先に大堀切と三の曲輪に着く。二の曲輪へは道が無いので、分かれた所から先に進んだ峠の右側へ段状を登って行くと二の曲輪へ着く。


出城B

形式 尾根城 【位置】
高谷城から土肥峠へ上る尾根の途中、標高351.7mのピークにあり、古道監視が主な役目と思われる。
城主 富永氏
遺構 郭・土塁・石積
所在地 伊豆市小土肥
訪城日 2010.6.2
参考資料 土肥・高谷城(静岡県田方郡土肥町教育委員会)



【遺構】
国道136号線の旧道側から尾根を辿ると、送電線の鉄塔が建つ最初のピークに着く。ここは旧道側尾根に対する見張台として使われたと思われ、旧道側から北側にかけて切岸が見られる。更に100m程進むともう一つのピークが出城址。藪は無く木が生えるのみで、遺構が綺麗な状態で残っているのには驚いた。数十年前まで城として使われていたのでは・・・と錯覚してしまう程である。4の土塁は高さ1m程で、東の尾根側土塁は櫓台の可能性もある。この土塁には、6の二ヶ所に不思議な穴が開いている。主郭1は、西側に5の石積(野面積)と横矢張り出しがあり、その下には腰郭2を備えて西側に対している。38m×18mの小規模ながら、戦術的な造りが見られる城で興味深い。また、腰郭2の西側にも石積みの一部が残っている。西側から腰郭への虎口は張り出しの前面と想定し、腰郭から主郭への通路は、腰郭の南側から石積みの前面を通り7の虎口推定部へ入ると思われ、横矢張り出しが有効に機能する。



主郭の西に残る石積。


【左】主郭内部を西側から見たもの。正面奥(東)から左(北)にかけて、高さ1m程の土塁が残っている。
【右】東土塁。右寄りに穴が開いているが、自然のものか人為的なものか、覗いてはいないが側面の穴と繋がっている
   とも思える。
【左】北土塁を西側から見たもので、少し湾曲しているのが分かる。
【右】主郭内部を東側から見たもの。奥に張り出しが見える。
【左】主郭の西に残る石積み上面と腰郭を見たもの。堆積物はとても少ないようだ。
【右】石積と虎口想定部、横矢張り出しを見る。
【左】横矢張り出しから虎口推定部(左)と野面積みの石積みを見る。石積みの前面には狭い通路状の痕跡が見られるので、
   石積みは通路の崩れ止めと思われる。
【右】張り出しの前面から腰郭を見たもの。左上方と奥の右側面に石積みがある。
【左】腰郭の側面に残る石積みの一部。
【右】見張台下を通る古道(土肥道)の尾根切通しになっている部分を土肥側から撮ったもの。古道地図1の場所。
【左】上右写真の土肥へ下る側を撮ったもの。6月末でも藪は生えておらず、300m程下ると畑地跡に着き道が
   分かれる。
【右】出城址から旧道を挟んだ尾根上方には、幅5m程で長さ50mの堀割道が残っていた。左側には土塁状の
   土盛りが見られる。古道地図2の場所。
【左】上右写真の反対側、土盛上から撮ったもの。左側
   には486.3mのピークがあるが、城郭遺構は無か
   った。土盛りは直線的に続いて先で右へカーブする
   が、道部分は崖崩れで削られ、その先で狭い堀割道
   へと変わりピーク側面へ上って行く。道幅が取れる
   部分では広くしている様だ。


【道】
国道136号線を修善寺方面から土肥へ向かう。西伊豆バイパスの船原トンネルを過ぎ、更に2つ目のトンネルの出口右側から136号線の旧道へ入る。ここから1.5km程行った所に切通しがあり、左側に2台の駐車スペースと目印の大石とカーブミラーの所に石仏が2つあり、尾根斜面に古道がある。古道を少し歩くと右へ折り返す道があるのでこれを行き、石積みの前を過ぎて尾根上へ上り、左へ進むと少しで送電線の鉄塔が建つ見張台へ着く。更に尾根を下って上り返せば1分程で着く。