形式 | 山城 | 【位置】 天ヶ岳の標高120mの山頂部に位置し、山全体に造られた砦の司令部的役割をしていたと思われる。 |
年代 | 天正十七年(1589)〜天正十八年(1590) | |
城主 | 北条氏規 | |
遺構 | 郭・土塁・堀切・仕寄遺構 | |
所在地 | 伊豆の国市韮山町韮山 | |
訪城日 | 2008.1.26 | |
参考資料 | 伊豆韮山籠城戦の付城と仕寄遺構 |
【遺構】 E地区最後の仕寄堀を過ぎて細尾根を進むと、いよいよC地区へ入り、最初のピークにある小郭へ着く。ここには東側に小さい土塁が残っていて、ここから天ヶ岳へ伸びる尾根には二本の仕寄堀が右側に連続に掘られ、左側を土橋状に狭めている。そこから少し下ると尾根に三条の堀切状の仕寄堀が残り、更に土塁を切ったような小さい二条の仕寄堀が続いてある。ここに仕寄堀が連続してあるのは、この先の上方に天ヶ岳砦の南端に位置する櫓台があり、ここから北条方の激しい抵抗があったものと思われ、少しずつしか進めなかった事を物語る。仕寄堀群を過ぎると、天ヶ岳砦の城壁がそびえる斜面に着く。斜面手前にはかつて北条方の堀切が存在していたが、天ヶ岳が落とされた後に埋められたようである。土橋の痕跡が僅かに残り、堀切だった事が分かる。正面の櫓台へは、左側に上る踏み跡がある。上ると堀切と櫓台が見れる。ここは豊臣方が奪取後に仕寄遺構として改修したと思われる。先へ進むと突然尾根の左側を掘り切った片堀切(下写真)に出会う。右側には土橋が残り、北条方の遺構と思われ圧巻である。ここを過ぎると左側に大きな山頂部を削り残したような土塁があり、右側に虎口がある。左の土塁は和田島砦から続く尾根に対するものと思われ、崖下には岩盤を掘り込んだ土橋が残る堀切がある。山頂の北端はL字に右へ曲がり、韮山城へ続く尾根には山道が下っている。北条方はこの道で本城へ退却したと思われる。江川砦へ下る尾根には岩盤を掘り込んだ堀切があり、細い土橋が残っている。この地区は、北条方と豊臣方との最後の攻防が行われた場所であり、北条方の兵達が両方向から追い詰められる緊迫感が伝わり、とてもお勧めですが、北条氏ファンにとってはもの悲しくなってくる所です。これから先は、B地区へと続きます。 |
C地区での見所の一つで、細尾根に残る片堀切を天ヶ岳側から見たもの。左側が土橋に なっており、北条方の遺構と思われる。 |
【左上】地区南端の小郭に残る仕寄堀の一条を天ヶ岳側から見たもの。手前にも一条あり、 奥の小郭を豊臣方が取った後に天ヶ岳への足掛かりとした。 【右上】左上写真の仕寄堀から天ヶ岳方面に残る仕寄堀の一条。尾根中央から見たもの。 |
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【左上】天ヶ岳の南端にある、埋められた堀切(手前)に微かに残る土橋の痕跡と、上には 天ヶ岳砦の櫓台があった崖が見える。北条方はこの櫓台からかなり抵抗をしたと 思われ、堀切の手前には多数の仕寄堀が残っている。 【右上】左上写真の崖上に残る櫓台を天ヶ岳側から見たもので、奥が櫓台であるが、後に 豊臣方が仕寄りとして小郭を造り使ったと思われ、手前に幅1m深さ50cmの硬い 粘土質の尾根を箱堀状に掘り込んだ仕寄堀がクッキリと残っている。 |
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【左上】上の仕寄堀の堀底を見たもの。底が平なのが分かる。 【右上】上写真の片堀切を尾根側から見たもの。右側が土橋。 |
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【左上】天ヶ岳砦の土塁(左側)と虎口(右側)を南側から見たもの。虎口を入ると細長い 郭になっている。 【右上】天ヶ岳砦の細長い郭内部を南側から北側を見たもの。北側の先端部は右にL字に 折れている。 |
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【左上】天ヶ岳砦の北側のL字に折れた先端部。ここから韮山城が見下ろせ、江川砦側の 尾根は右上写真の堀切で守っている。 【右上】岩盤を掘り込んで造られた堀切を江川砦側から見たもの。土橋が残り、上部は狭く 不安定な為、上方から狙われ易かったと思われる。土橋上には二本の木が生え、 今でも人の侵入を阻んでいる。 |
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【左】山頂から和田島砦へ伸びる尾根にある 堀切。 |
【道】 F地区を参照して下さい。 |