山中城



形式 山城 【位置】
箱根峠から東海道を三島へ下った、標高580mの中腹に位置し、東海道を制する目的で築かれた。
年代 戦国時代
城主 北条氏政・氏直
遺構 曲輪・土塁・空堀(障子堀・畝掘)
訪城日 2009.1.7
参考資料 「箱根をめぐる古城30選」・「戦国の堅城U」



岱崎出丸の畝掘を擂鉢曲輪下から見たもの


【歴史】
山中城の築城時期は詳らかではないが、永禄年間の武田戦に対して、駿河からの侵攻を阻止する拠点として築かれ、平時は東海道の関所としての機能も持っていた。天正十五年(1587)頃から小田原の役前年の天正十七年(1589)まで改修・増築を行い、岱崎出丸も築かれて豊臣勢を迎え撃つ用意が出来た。
天正十八年(1590)三月二十九日の早朝、山中城に籠もる北条氏勝を守将に、松田康長・間宮康俊以下の北条勢4.000名に対し、豊臣勢は中村一氏・一柳直末を先鋒隊として岱崎出丸の攻撃を始め、後続隊・予備隊を含めた35.000名が取巻いた。一方、西櫓・西ノ丸には、徳川隊が襲いかかった。北条勢は良く健闘したが奮戦むなしく城は一日で落城し、北条氏勝は小田原へ逃れ、松田康長・間宮康俊以下、多数が討死した。また豊臣方では、中村一氏・一柳直末が討死し、戦死者も多かった様である。


【遺構】
山中城は城址公園として発掘復元されており、遺構の状態はとても良く、曲輪や土塁・空堀(障子堀・畝掘)など見所満載である。
有名なのであえて細かい説明はしませんが、岱崎出丸の8の空堀の先に、堀下りと土塁9が林の中に埋もれており、表面観察で分かるので、覗いて見ると良いです。擂鉢曲輪から出丸中程まで続く畝掘は、堀底から曲輪上部の土塁までの高さを一定にする為、擂鉢曲輪下では曲輪面が一段低いので、堀も一段低くしいるのが分かる(上写真を参考)。また、北の丸の空堀を挟んで北西の頂部から空堀沿いに下る細尾根に二段の削平地が見られます。


岱埼出丸




【左】3の駐屯に適した曲輪から御馬場曲輪を見る。
【右】2の御馬場曲輪の内部。大手口側から見たもの。右が西側土塁で、手前が
   北側土塁。
【左】御馬場曲輪(左側)下の8の空堀。畝が一つ見える。奥の林には【右】9の堀下りが
   埋もれている。
【左】北条方が中村隊に対して鉄砲戦を行った土塁面(4・5付近)と、三島市街を見た
   もの。
【右】【左】写真を反対側の4(擂鉢曲輪見張台)から撮ったもの。右には微高差ながら
   三段の曲輪が見られる。
【左】1の擂鉢曲輪
【右】7の畝堀に落ちた、兵から見た擂鉢曲輪の切岸。
【左】4の擂鉢曲輪見張台から見た畝掘。
   当時は更に深かったであろう。


本城



【左】19の西櫓を囲む畝堀。
【右】21の西ノ丸から見た西櫓内部。倉庫跡の土壇が残る。
【左】19の西櫓と21の西ノ丸間の障子堀。
【右】21の西ノ丸内部。奥が西櫓側。
【左】21西ノ丸の西櫓側にある見張台上の土塁。コの字に囲われている。
【右】22の元西櫓から23の二ノ丸虎口と見張台(左上)を見たもの。
【左】23の二ノ丸内部を見たもの。元西櫓側(奥)へ傾斜している。
【右】23の二ノ丸と、25の本丸間の屈折する畝堀。
【左】25の三段に分かれた本丸の最上段の内部。北ノ丸側には櫓台も残っている。
【右】24の北ノ丸内部。三方に土塁が見られ、外側の尾根(曲輪)とは空堀で切られ
   、防御されている。
【左】18の曲輪から下る尾根には二段の削平地が見られ、尾根は【右】土塁と
   空堀へと変わる。この辺りは、未整備のままで残されているので、見ていて楽しい。


【道】
箱根湯本箱根新道(有料)もしくは国道1号線で箱根峠へ
向かい、更に三島へ下って行くと一つ歩道橋があり、その
300m程先の信号の左右と、更に200m先の左側に城址
公園の駐車場がある。