三津城



形式 山城 【位置】
標高410mの発端丈山山頂にあり、葛城山・城山(金山城)・内浦湾などが見渡せる。
年代 南北朝時代〜後北条氏時代
城主 畠山義熙・後北条氏
遺構
所在地 伊豆の国市長瀬
訪城日 2008.4.30
参考資料 ふるさと古城の旅


【歴史】
畠山国清が康安元年(1361)十一月に足利基氏に離反し、修善寺城と金山城(弟・義深)と共に立て籠もった城である。三城の内、最初に落城したと言われ、残党は金山城・修善寺城へと逃れるが落城し敗れた。時代は下り後北条氏の時代になり、今川氏が滅亡すると駿河へ武田氏が侵攻し始め、武田水軍が編成されると天正七年(1579)に三津の北条水軍の統括者として梶原備前守が長浜城に入った。この時期に武田水軍が内浦湾の長浜城や獅子浜城を攻略した場合に備え三津城北砦・三津新城を築城し、畠山氏時代の古い三津城を改修して整備したと思われる。翌年には武田水軍との間で駿河湾において海戦が行われている。天正十八年(1590)の小田原の役では小田原籠城が決まると放棄され、その後廃城になったと思われる。



【遺構】
主郭は方形で一段下に帯郭が取巻いており、南西側は張出郭になっている。益山寺側では帯郭の下に1・2段程の腰郭が付随しているが、下段は明確ではない。三津城北砦側からの道はハイキング道として張出郭の横(横矢が掛かる)を通り帯郭へ入ってるが、本来は張出郭へ入り主郭へ至っていた可能性もあるが、藪が酷く見出せない。


【左上】主郭を西側から見たもの。先には葛城山と金山城が見えるので、狼煙台も
     兼ねていたであろう。
【右上】主郭内部を益山寺口から北西を見たもの。
【左上】主郭から張出郭を見たもの。右に三津城北砦への道が写っている。
【右上】益山寺側から腰郭(手前)・帯郭(中程)・主郭(上方)を見たもの。
【左】三津城から三津城北砦へ向う1つ目の
   ピーク。三津新城までそれぞれのピー
   クには遺構があり、ここも平らになって
   いるので柵等が有ったのかも知れない。


【道】
三津城は先にある三津城北砦・三津新城とセットで見て頂く事をお勧めします。行き方は三津城北砦を参照して下さい。