上山田山付城



形式 山城 【位置】
北条氏邦が守る韮山城の、南東約1.2kmの上山田山の山頂にあり、韮山城方向へ尾根を下ると、追越山付城(明石則実500人)へ、南西へ下ると昌渓院付城(生駒親政2.200人)へと繋がり、北には本立寺付城(蜂須賀家政2.500人)がある。
年代 戦国時代
城主 前野長康(1.250人)
遺構 枡形虎口・郭・土塁・空堀・堀切
所在地 伊豆の国市韮山町金谷
訪城日 2007.9.19 11.14
参考資料 伊豆韮山籠城戦の付城と仕寄遺構


【歴史】
天正十八年(1590)の小田原の役が始まると、三月二十九日から豊臣勢による山中城攻撃と同じくして、韮山城砦群の城兵3.640余人に対して、総勢16.750人程での包囲作戦が開始された。上山田山付城は、前野長康勢(1.250人)が築城し、陣を張った所である。



【遺構】
韮山城方向を向いた、西郭・中央郭・東郭の三郭を並べる連郭式で、枡形虎口が連続する特徴的な付城である。
★西郭は、北西に枡形虎口が見られ、周りは土塁で囲われている。昌渓院付城への南尾根側には、空堀と堀切が残っている。西郭から中央郭への枡形虎口や通路は、まるで方向感覚を狂わせてしまう迷路のようである。
★中央郭も土塁で囲われ、三郭で一番厳重に造られている。
★東郭は三方に土塁が無く、西に枡形虎口、南に平虎口で下の帯郭へと下りれる。北の虎口は、一段下を取巻く帯郭から縦堀状に上って来た敵に対し、正面の一文字土塁の上から狙える構造である。
南東尾根には帯郭が空堀状になったものがあり、尾根側に堀切が一条有ったようであるが、埋没している。東郭と空堀を挟んで下に削平地が残り、東南尾根に対する郭だったかとも思われる。城から続く南・南東・北の尾根には、段状の削平地が残っているので、ここを兵の寝泊りの場所に充てていたようである。城の形状や枡形虎口、帯郭の使い方は、箱根の御所山城や小田原の富士山陣場と似ているものがある


【左上】西郭の南土塁。左下には、空堀と【右上】の堀切で南尾根を防御している。
【左上】西郭(右側)から中央郭(左側)へ入る枡形虎口で、突き当り右手に門があったと思
     われる。
【右上】中央郭北側の帯郭。東郭の北門まで繋がっているようだ。左下から上る尾根上に
     小郭群がある。
【左上】東郭の枡形虎口を郭内から撮ったもので、右に折れて中央郭へ続く。正面が中央
     郭の土塁で、右手前に写るのが一文字土塁。

【右上】東郭の下にある郭。実質的には、四郭から成るようだ。ここは薮が少ない。


【道】
江川邸の駐車場から昌渓院へ向うと、途中で本立寺前を通る道と合流する所を左折し、直ぐ右へ曲る道を進みます。途中から舗装された林道になりますが、進むと貯水タンクが左にあり、、ここに1、2台置けます。貯水タンクから林道を挟んで、山側に入る山道があるので、一段上がったら左側の竹薮の急斜面を直登します。途中で諦めず頑張って下さい。途中広い削平地に出れば、あと残り3分の1です。